黄泉路は、都に生まれた公家の三男だった。そこでの名は
権勢渦巻く屋敷の中で、窮屈な日々を強いられながらも、静かに己の在り方を模索し続けていた。周囲が美辞麗句と陰謀に満ちるなか、彼の心を照らしたのは一匹の化け猫だった。

幼き日のある時期、彼の護衛として仕えていたその化け猫は元検非違使(冒険者)だった、名前こそ忘れてしまったが凄まじい力を持っていた。武士に憧れていた黄泉路にとって、化け猫は憧れであり、稽古の相手であり、唯一無二の存在だった。

しかし、ある年の「幽世騒ぎ」によって、化け猫は突然姿を消した。
あの夜を境に戻ることはなく、その理由を誰も語ろうとしなかった。
残された黄泉路の胸に芽生えたのは、喪失ではなく「憧れ」の再燃だった。

なぜ戻らなかったのか。
あの者ほどの力を持つ存在がいるのか、幽世の向こうに。
この退屈で灰色の世界を打ち壊すような、闇の奥の真実とは何なのか。

20歳を越えたある日、武士となるべく身分を偽り、詰め所へ向かうため、黄泉路は家を抜け出す。
冥き道を渡る者として。
幽世を越え、黄泉を渡り、ただひたすらに「その先の闘争」を求めて。

彼の歩むその道は、まさに“黄泉の路”であった。
彼の護衛だった化け猫の名は"ヨミ"

あれは、俺が幽世を渡り、その地を浄めた直後のことだった。
異界の瘴気が薄らぎ、死の気配だけが残された場所で――静かに倒れている、“命の名残”を見つけた。

一匹の化け猫が、力なく横たわっていた。
近づくと、それがまだ生きていることがわかった。外傷こそないが、呼吸はか細く、今にも途切れそうだった。

それでも、不思議とその身を抱き上げる手は止まらなかった。
この化け猫を見捨ててはならない――ただ、そう思った。

数日後、その猫は目を覚ました。
女の姿に戻った彼女の瞳は、まるで何も見ていないようで、それでいてすべてを諦めきってはいなかった。

名は、寧々。
かつては「小鳥遊」と名乗っていたらしいが、今はただの寧々。
生まれ育った家を逃げ出し、名も、立場も、すべてを棄てて、この幽世の底で命を拾い直した娘だった。

「拾っていただいた命、お返ししたく思います。私を……あなたの影として、傍に置いていただけませんか」

そのときの彼女の顔には、空虚と、どこかに仕舞い込んだ覚悟が混ざっていた。

運命めいたものを感じた。己も、名と身分を捨て黄泉を歩く者だったからだ。
そんな俺のような、すべてを捨て、生を惜しまず闘争に身を投じる者に、それでも傍にいたいと願うのなら――

それを拒む理由など、俺にはなかった。

「私には姓がありませぬ。どうか、臣下としての形をいただけませんか……？」
「ならば、夜目が効かぬ俺に代わって、夜の路を見張る者として――」
「……」
「俺と同じ、『夜見路』。これからは、そう名乗るがいい」

その瞬間、彼女の眼が初めて揺れた。
寂しさが和らぎ、名を授かる者の静かな誇りが、そこに宿った。
この時、二度と名乗る気の無かった名前を何故か寧々に明かしてしまった。｜西園路 冬鷲《さいおんじ とうしゅう》と
それ以来、寧々は俺を「主人様」と呼び、傍に仕えてくれている。
よく走り、よく笑い、そして……よく世話を焼いてくる。

黄泉の路を一人で渡るには、あまりに寒すぎる時もある。
そんなとき、傍に誰かがいるだけで、ほんの少しだけ心が軽くなる。

俺は、あのとき寧々を拾った。
……だが、時折思う。あれは寧々が、俺を拾ってくれたのかもしれないと――いや、きっと、そうなのだろう。