『逃げて。あなたは逃げるの』

声がする。
涼やかな、透き通った声。

『何もかもを忘れ、遠くへ。どこまでも遠くへ』

絹のような髪が頬を撫でる。
それが自分のものなのか、声の主のものなのかは分からない。

『思い出してはだめ。これからのあなたが、あなたの全て』

額にそっと手が触れる。
氷のように冷たく、あたたかい手。

『……ごめんなさい』

声の主が何かを呟く。
それは子守唄のように意識を包み込み、奪っていく。

『さようなら、私の――』

検非異使支部の食堂で、丁寧に焼き魚をほぐしながら直は想いを馳せる。
自分の記憶は何かしらの術で意図的に封じられている。
根付にあった名前。おそらくこれも本当のものではないのだろう。

食堂の入口から通りを見る。
声は遠くへ逃げろと言っていた。全てを忘れろと言っていた。

華美でなくとも自分の着る衣が周囲に比べ上等なものであることは分かる。
無意識に出る所作や言葉遣いも、きっと叩き込まれたものなのだろう。
そのような自分が逃げろと言われる理由は、察して余りある。

額に手をかざすと、まだ感触を思い出すことができる。
全てを忘れるはずが残ってしまった記憶。
自分を想っての行いであると確信できるあたたかさ。

であれば、従うことにしよう。本当に一切を忘れたことにしよう。
声のままに、遠くへ。いずれあの海すら越えて、ずっと遠くへ行こう。
それがきっと自分に、"氷見津 直"としての自分に望まれたことなのだから。


「ごちそうさまでした」

時間をかけて定食を平らげ、席を立つ。
支部には様々な人が行き交い、雪人の自分もそこまで目立つことはない。
せっかく見習いとして置いてもらっているのだ。
ここで路銀を稼ぎ、いつかの渡航費を少しずつでも……

「ん？　あれ？」

ふと、午前に買った墨と硯、そして着替えのことが頭をよぎる。
今朝見た財布の中身があれくらい。午前の会計があれくらい。なるほど。

「ごめんなさい、ちょっと手持ちが……」

雪人らしい細長シルエット。身長は170cmくらい。
一般的な雪人よりは耳が短め。髪は背中の中ほどまで。
特定の話題にならない限りは所作も綺麗な超美人で通せる。
ややある。着物なのであまり分からない。