私がこの國に生まれ、初めて味わったのは。温かく柔らかな、ある女性の唇の感触でした。
六波羅の邸宅に佇んでいた私は沙羅双樹……厳密には夏椿といいましたか、そういった名だったようでして。私がヒトガタとなったときは、それはそれは大層驚いていらっしゃいましたね。ともあれ、樹が失くなり人が増えた、それも箱入り娘の彼女に近づいたと知られれば末路は想像ができます故、私は邸宅を離れ人知れず密会を重ねる日々が続きました。
しかし、当時の人というものは様々な要因により短命でして。我々が出会い僅か十三年後、彼女は私の胸の中で御隠れになりました。私の中に芽生えた感情に気がついたのは恥ずかしながら、彼女を看取ってから数百年後のことでした。

時代は移れど、私は変わらず。姿形をそのままに記憶や知識を受け継ぐということは、人間社会に溶け込むには大変不都合でして。それはそれは苦労しましたとも。……おっと、昔はともかく今の私は人様に苦労話を聞かせるほど同情や共感を求めているわけではありませんので、ここまでにしておきましょう。
幾度となく夜を越え、盃を交わし、数多の人生を諦観してきました。そこにあったのは純粋な興味のみであり、幕を閉じた者たちのことを思い出すことはほとんどありませんでした。唯一、最初に出会ったあの方を除いて。

それから、現代にて。その日、世界は混乱と渦中へと身を投じることとなります。御察しの通り、アメリカの輸送機が撃墜され、レネゲイドウィルスが拡散してしまった事件のことです。私個人としては、レネゲイド云々の問題について首を突っ込むつもりはありませんでした。そういった未曾有の変容も含め、我々の世界は創られていくので。……だったのですが。
数年後、ある地方都市を放浪していたときのことです。その惨事、“震夜”事件が起こったのは。今まで災害や天変地異に直面したことは少なくありませんでしたが、私が死を間近に意識したのは唯一その時でしょうか。

私が彼女の最期の言葉を頭の中で反芻させたのは、二度。一度は九年前、その地方都市にて。その言葉の真意を、私は知りません。死を目前に滑り出た世迷言の可能性も十分にありました。ですが、停滞していた私の心を動かすには、それ以上のものは必要ありませんでした。
こうして、私はストレンジャーズおよび在日米軍とともにオーヴァードとジャームを鎮圧することに成功しました。もっともその被害は甚大であり、“魔街”という悲劇の爪痕が残されてしまいましたが。それからの話は必要ありませんね？私はその事件を経てストレンジャーズにスカウトされ、そのまま所属させていただきました。UGN、FH、ゼノスと様々な勢力はあれど、ここが一番私の理念に沿った活動ができそうでしたので。
……二度目はいつか、ですか。無論、それは二年前のS市にて。かの怪物「人嵬」と、その身ひとつで相対したときでございますよ。
「──この國を、よろしくお願いします」
──ええ。これまでも、これからも。私はこの國をお守りします。たとえ運命が人類滅亡の意志を企てているとしても、あなたの言の葉が私の中に響く限り。