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古びたテルマの手記 - ゆとシートⅡ for SW2.5 - ゆと工公式鯖

古びたテルマの手記

基本取引価格:0
知名度
形状
革でまとめられた紙束
カテゴリ
製作時期
現代
概要
雨に濡れて表紙はふやけ、角はめくれ上がっている。ページは波打ち、インクがにじんで読めない箇所もある。落ち葉と泥が張りつき、ところどころ破れている。
効果

・14年前-出会いと呪い、そして婚約。

テルマがまだ少年だった頃、遠方の幼馴染に会いに行くため、偶然にも高名な運び屋であるアガペー家の馬車に同乗させてもらう機会を得ました。

アガペー家は、「重要な書物を命懸けで届けた功績により、一代限りの貴族の爵位を賜った家柄」であり、その誠実な仕事ぶりは広く知られていました。
その馬車で、テルマはアガペー家の令嬢であるフィリアと初めて出会います。
しかし、フィリアはフードを深く被っており、その顔をテルマは窺い知ることはできませんでした。
人見知りで口下手なテルマは、緊張のあまりフィリアとまともに言葉を交わすこともできず、ただ気まずい時間が流れます。
その道中、一行は突如として強大な「魔神」に襲撃されてしまいます。

混乱の中、魔神の攻撃がテルマを襲おうとした瞬間、それまで静かだったフィリアがテルマの前に躍り出て身を挺し、彼を守りました。
フィリアは勇敢に魔神に立ち向かいましたが、その代償として不吉な「呪い」をその身に受けてしまいます。
この時初めてフードがはずれ、テルマはフィリアの顔を目の当たりにします。
テルマは、命を救ってくれたフィリアの勇姿と、その瞬間垣間見た彼女の美しさに一瞬で心を奪われ、口から普段は口にしないような言葉が出てしまいます。
「顔面国宝! 我が生涯の推し! まさに生命大助也尊(いのちおおだすかりのみこと)…!」と激しく感情がさらけ出してしまいました。
しかし、彼は男爵家の跡取りとしての矜持と、突然の出来事への混乱から、必死に動揺を抑え、貴族らしく冷静沈着に、そして最大限の感謝を伝えようと努めます(実際にはしどろもどろだったかもしれません)。
この事件をきっかけに、テルマの親は、息子の命の恩人であるフィリアとその高潔なアガペー家に深い感銘と感謝を抱きます。
また、テルマがフィリアに特別な想いを寄せていることを見抜き、両家の友好とテルマの将来を思い、アガペー家に正式に婚約を申し入れます。 フィリア側もこれを受け入れ、二人は婚約者となりました。

・13年前-甘やかな日々、春の庭にて

婚約してから数十ヶ月くらい経って、季節は春になった。
風は柔らかく、花は陽に透けるように咲き乱れていた。アガペー家の庭園は、ちょうど紅白の椿が満開を迎え、まるで祝福の天蓋のように、空へと枝を伸ばしていた。
 テルマは、庭の石畳の上で静かに立っていた。少し緊張している。普段着なれない軽装のシャツに、あまりにも自分が場違いな気がして、袖口を何度も直していた。
 そのとき、フィリアが姿を現した。
 白地に金糸の刺繍が施された春のドレスを纏い、ふわりと肩まで伸びた栗色の髪に、小さな椿の花飾りが添えられている。
 「お待たせ、テルマ」
 その声だけで、世界の光が変わったように感じた。
 テルマは何か言おうとして、けれど言葉を忘れたように口を開けたまま、立ち尽くした。フィリアはくすりと笑い、彼の腕をそっと取る。
 「今日は“恋人みたいに過ごす日”って決めたでしょ?」
 そう、それは二人がこっそり決めた日だった。忙しい家のしきたりも、貴族としての立場も関係なく、ただ“好きな人と一日を過ごす”ための、ひとときの逃避行。
 庭の隅にしつらえた木陰の机で、フィリアは紅茶を淹れた。彼女の手から零れる香りが、春の花々よりも甘く、心をふわりと包んでくる。
 「テルマって、ほんとはすごく不器用なのに、真面目だからズルい」
 「……ズルい?」
 「だって、そんなに一生懸命に私のこと、大切にしてくれるから。こっちまで好きになりすぎちゃう」
 その一言で、テルマの頭が真っ白になった。
 彼はぎこちなく笑い、照れを隠すように紅茶を飲もうとしたが、カップは微かに震えていた。
 「……フィリアも。いや、なんというか。僕はその、きみのことを、たぶん、すごく」
 「すごく?」
 フィリアは首を傾げ、微笑む。その顔を見た瞬間、テルマは言葉を失った。まるでその笑顔が、自分の全人生を肯定してくれるようで。
 「――すごく、大切だ。大切で、どうしていいか分からなくなるくらいに」
 その瞬間、春風が吹き抜け、木の葉がささやいた。
 フィリアは一瞬だけ驚いたような顔をして、それから優しく目を細めて言った。
 「……嬉しい。テルマのそういうところが、一番好き」
 そう言って、彼の指先に自分の手を重ねた。
 それは恋の約束でも、愛の証明でもなかった。言葉にならない想いが、ただそっと、ひとつの温度に重なる――そんな瞬間だった。
 ふたりはそのまま、何を話すでもなく、ただ風の音を聴いていた。小鳥のさえずり、花びらの落ちる音。何もかもが、今日という日を讃えているかのようだった。
 そしてテルマは知った。
 人はこんなにも、誰かを愛していいのだと。

・12年前-優しさの影、声の隙間に

 それは、初夏の風がやや熱を帯びてきたころだった。
 アガペー家の離れにある書斎にて、フィリアはテルマに贈る詩をしたためていた。
 彼女は筆の使い方が上手く、文字にも心が宿っているようだった。それはまるで、花びらが紙の上に舞い落ちたような、妖精のようだった。
 けれど、その日は違った。筆先が妙に止まりがちで、何度も紙を取り替えていた。
 それに気づいたテルマが、彼女の隣にそっと腰を下ろす。
 「無理して書かなくてもいい。今日は、外に出よう。湖まで、馬車で一時間くらいだ」
 フィリアは笑ってうなずいた。けれど、微笑みの裏に、どこか“力の入らなさ”があった。
 「……最近、少し、声が出にくい日があって。喉かな? 朝だけなんだけど、うまく話せなくて」
 「風邪かもな。医師を呼ぼうか?」
 「ううん、そんな大げさなことじゃないの。すぐ治ると思うから」
 テルマは彼女の手を取り、そっと頷いた。
 信じたかった。いや、信じることでしか、どうしていいか分からなかった。
 その数日後、ふたりは湖のほとりを訪れた。水面には睡蓮が浮かび、夏を告げる鳥たちのさえずりが耳に心地よく響いていた。
 テルマは舟を漕ぎ、フィリアはそれを見ながら、風に髪をなびかせていた。
 「……このまま、どこか遠くへ行けたらいいね」
 「どこに行く?」
 「言わない。でも、テルマが一緒なら、そこがどこでも“好きな場所”になる」
 それはただの甘い戯言ではなかった。
 その言葉の端に、テルマはふと、言い知れぬ不安を覚える。
 何かが、少しずつ、確かに違ってきている。
 けれどこの日も、二人は抱き合った。
 呪いの気配など影も形もなく、ただ、風の中にいたのは“好き”という気持ちだけだった。

・11年前-別離の始まり、体調の悪化

秋が深まり、木々が金と紅に染まりはじめたころ。
 フィリアは、いつものようにテルマのもとへ手紙を送っていた。
 しかし、その文字はどこか歪で、文末が空白のまま途切れているものが目立つようになっていた。
 「詩みたいだな」と笑っていたテルマも、次第にその空白に言い知れぬ不安を抱くようになる。
 ある日、アガペー家の館を訪ねたテルマは、客間に通され、待たされた。
 「……あの、フィリアは今日は?」
 「申し訳ありません。朝から喉の調子が悪く、横になっておりまして」
 フィリアの母が微笑んで答えるその顔にも、どこか影が差していた。
 やがて案内された寝室。
 窓際の椅子に腰かけていたフィリアは、いつものように微笑んでいた――けれど、どこか細く、儚げだった。
 「大丈夫。ちょっと疲れただけ」
 かすれた声。かろうじて聞き取れる程度の音量。
 それでも彼女は、いつものようにティーカップを手に取り、紅茶をすすめようとする。
 けれど、次の瞬間――フィリアの手が震え、カップがテーブルにぶつかり、甲高い音を立てて割れた。
 「……っ!」
 「フィリア、大丈夫か!?」
 テルマが駆け寄ると、フィリアは肩をすくめ、小さく笑った。
 「……ごめん、ほんとに。最近、少しだけ体がいうことをきかないの」
 『それは、“魔神の呪い”が与えた代償。
 発症から数年――ようやく、本格的に蝕みが始まったのだった。』
 それでも、フィリアは前を向こうとした。
病のことを話したがらず、いつものように手紙を書き、庭に出ようとし、紅茶を淹れようとし――
 けれど、回復の兆しは訪れず、むしろ体調は月ごとに確実に衰えていった。
 声が、出づらくなった。
 喉に力が入らず、ささやくような声しか出せない日が増えた。
 歩くと、すぐに息が切れた。
 読書の時間も減り、代わりにベッドで空を見上げる時間が増えた。
 テルマは、医師を手配し、薬を集め、呪術師の記録を漁り、呪いを解く術を探した。
 それでも、何も、届かなかった。
 フィリアは何も言わなかった。ただ、静かに、彼の肩に寄り添った。
 テルマもまた、何も問わなかった。問い詰めたら、壊れてしまいそうで――
 ただ、そっと彼女の手を握った。
 その手が、あまりにも冷たくなっていたことに、涙が零れそうになった。

・10年前-会えぬままの日々

冬が明けたころ、フィリアから久々に届いた手紙には、いつになく明るい文面が踊っていた。

「テルマへ。
最近、体調が少しずつよくなってきました。
声も出せるようになってきたし、庭を眺める余裕もあるの。
でも、お医者様には“絶対安静”ってきつく言われてしまって……。
あともう少しだけ、もう少しだけ時間をもらえるかな?
会えなくてごめんなさい。あなたのことを、いつも想っています。
フィリアより。」

 震える手で読み終えたテルマは、手紙を胸に抱きしめた。
 部屋に一人、何度も何度も読み返す。

 ――嘘だ。

 文面の中に、フィリアらしくない言葉の選び方があった。
 無理に明るく装ったような、重ねられた「元気」の表現。
 彼女の筆跡はかすかに歪み、行の途中で止まりそうな箇所もあった。

 それでもテルマは、信じようとした。
 いや――信じたかったのだ。

 「もうすぐ、また会える。フィリアが、庭を歩けるくらい元気になった」
 「絶対安静ってことは、あと少しで大丈夫になるってことだ」
 「今は会えないだけで、きっとまた一緒に紅茶が飲めるんだ」

 ――心のどこかで「それは違う」と叫んでいる声があった。
 けれど、その声には耳を塞いだ。

 彼は返事を書いた。
 筆が止まりそうになるたびに、フィリアが笑ってくれた日々を思い出しながら。

「フィリアへ。
そっか、それはよかった。心から安心したよ。
無理せず、でも少しずつ回復していこう。
僕はいつでも待ってるし、君がまた笑ってくれる日を信じてる。
絶対安静、守るのは苦手だろうけど……ちゃんと、守ってね。
また会える日を、心から願っています。
テルマより。」

 そして彼は、手紙を見つめながら、ただ一言だけ、
 声にならない声で呟いた。

 「……嘘でもいい、ありがとう。フィリア」

 その夜、テルマは夢を見た。
 かつて、陽だまりの中で並んで歩いた庭。
 風に揺れる銀の髪。紅茶を持つ指先。ふと振り返って笑う顔。

 ――そんな日が、もう一度、来ると信じた。

・9年前- 会いに行けなかった、ただ一つの選択

 季節がまた一巡した。
 春が、来た。
 だが――手紙は、来なかった。
 一ヶ月、二ヶ月……季節は淡く移り変わる。
 けれど、ポストには何も落ちてこない。
 アガペー家からも、伝令すら来なかった。
 「……おかしい」
 テルマは、気がつけば窓辺に立ち尽くし、空を見上げる日々を送っていた。
 空がどんなに晴れていようと、
 風がどんなに柔らかかろうと――彼の心は、騒いでいた。
 「行こう。もう、行って確かめるしかない」
 彼は、使用人を振り払い、荷をまとめ、馬に鞍を掛けた。
 誰にも止められなかった。
 この時の彼には、すべてを置いても「フィリアに会いたい」という思いしかなかった。
 ……だが、その直前。
 母が、静かに告げたのだ。
 「テルマ、アガペー家から連絡が来たわ。
  “今は会わせられない”と。
  “どうか、彼女の誇りを守ってあげてほしい”と」
 その言葉に、テルマの足は止まった。
 会わせられない――
 誇りを、守る?
 それはつまり……
 今のフィリアは、テルマに見せられないほど、衰弱しているということだった。
 声も、姿も、誇りも。
 彼女が彼女でいられる限り、「彼にだけは、弱った姿を見せたくない」という想いなのだ。
 テルマは、拳を握りしめた。
 壁を殴った。
 血が出るまで、殴った。
 叫びたかった。怒鳴りたかった。暴れたかった。
 「なんでだよ……!」
 目の前の花瓶が砕けた。机がひっくり返り、硝子が飛び散る。
 自分の手が血で汚れているのに、痛みは感じない。
 胸の奥だけが、焼けるように痛む。
 「会いに行けないって……なんで……ッ!」
 「俺は、彼女を守るって誓ったんだぞ。
  俺は、命まで投げ出せるって思ってるんだぞ……!
  それなのに……どうして、会っちゃいけないんだよ……!」
 床に崩れ落ち、喉が嗄れるまで唸るように叫んだあと、
 彼は、また立ち上がった。
 「……でも、俺は……行かない。会わない」
 「彼女がそれを望むなら、俺は、我慢する」
 「それがどんなに、狂いそうなくらい辛くても……それでも、俺は」
 拳を握る。血が滴る。
 涙も、嗚咽も、何もかもを飲み込んで、テルマはただひとつ、誓った。
 「俺が耐える。彼女の願いが、俺を試してるなら――全部、俺が背負う」
 この日を境に、テルマは変わった。
 貴族としての立ち振る舞いも、仕事ぶりも、誰よりも冷静で整然とし始めた。
 その姿はまるで、大人のようだった。
 ――けれど、夜になると、
 彼は密かに手紙を綴り、封もせずに机に置いたままにするのだった。
 書いても、送らない。
 声にしても、届かない。
 届かないと知りながら、それでも“届けたい”気持ちは、まだ死んでいなかった。

・8年前-永遠の別れ。約束は、空に。

 今年も、春が来た。
 桜が咲いた。空が高くなった。
 それは、彼女の好きな季節だった。
 ──でも、もう、今年は手紙が来る気がしなかった。
 そして。
 その報せは、淡い春の日差しの中、まるで冗談のように届いた。
 「……フィリア様が、亡くなられました」
 一瞬、時が止まった。
 耳鳴りがする。
 目の前の使用人の声が、まるで遠くの川の音のように聞こえた。
 テルマは、動かなかった。
 椅子に座ったまま、まばたきもせず、何も言わなかった。
 心拍だけが、異様に早くなっていく。
 「嘘だろ……?」
 その言葉が口から漏れるまでに、何十秒もかかった。
 「まだ……手紙が……届くはずだったんだ。
  “治ってきた”って言ってたんだぞ。
  “絶対安静だけど、だいぶ良くなってる”って……!」
 気づいていた。
 あの言葉が、優しい嘘だったことも、本当はもう、限界だったことも。
 でも、信じたかった。
 自分だけは、ずっと彼女を待っているつもりだった。
 「……なんでだよ、なんで俺じゃなくて……死を選んだみたいに……」
 声が震える。
 呼吸が荒い。
 心臓がどくどくと痛む。
 怒りも、悲しみも、悔しさも、全部混ざり合って、もう何が何だかわからない。
 ただひとつ確かだったのは、もう、二度と彼女に会えないということだけだった。
 「俺の……俺の命なんて、あのとき、お前が助けてくれた命なんて……
  そんなものより、よっぽど……お前の方が、生きててよかったのに……!」
 目を見開いたまま、テルマは部屋を飛び出した。
 走った。どこまでも走った。
 泥で汚れても、石につまずいて血が出ても、止まらなかった。
 「返せよ……っ」
 「なんで……なんでだよ……! ふざけんなよ!!」
 誰に届くでもない叫びが、風に消えていく。
 あのときと同じ空が、あのときと同じ風が、すべてが彼女の記憶を突き刺してきた。
 ──そして、数日後。
 アガペー家から、一通の封筒がテルマの元へ届けられた。
 それは、フィリアの遺言として、残されていたもの。
 彼に見せるつもりはなかったという、最後の手紙。
 家族が、迷い、泣きながら、それでも「届けねばならぬもの」として決意をした。
 その中には、フィリアの震える手で綴られた、テルマへの感謝と祈り、そして別れの言葉があった。
 そして一文。
 >「テルマ。あなたの未来が、誰よりも輝きますように。
 > 私が見ていなくても、あなたが私を思い出してくれなくても、
 > 私は、あなたに救われて、生きてこれました。」
 > テルマ。あたし、あなたの“生き方”が好きよ。」
 その文字は、かすれていた。
 掠れきった、命の最後のしずくのような筆跡だった。
 テルマは、それを見て、初めて泣いた。
 声を上げて、嗚咽して、叫ぶように泣いた。
 助けられなかった。
 会いに行けなかった。
 選ばなかった、という選択が、彼女をひとり死なせた。
 それがどんなに誤解でも、どんなに正しくても、彼には「許し」ではなく「喪失」しか残らなかった。

・7年前-テルマ。それは、想いの言葉を届ける者

 あれから三年。
 テルマは、自分の家の爵位を放棄した。
 男爵の跡取りという立場を捨て、一介の“運び屋”として生きる道を選んだ。
 「……俺が背負うのは、権威じゃない。彼女が命を懸けて守った“約束”だ」
 かつて、フィリアの父が担った想いを。
 母が見守り、家族が支えた使命を。
 テルマは、自らの手で握りしめ、歩き出した。
 その姿に、アガペー家の者たちは目を見張り、
 そして涙を堪えて、こう言った。
 「君はもう、我が家の血でない。だが……君こそが、アガペーの名にふさわしい」
 それは、彼がずっと欲しかった“許し”ではなかった。
 けれども、それ以上に、「信託」だった。
 フィリアの墓は、街外れの静かな丘の上にある。
 誰もいないその場所に、テルマは毎月、一通の手紙を届けに行く。
 封筒の中身は、たわいのない報告だ。
 「昨日は南の山村に薬を運んだ」
 「途中で盗賊に襲われたが、追い払った」
 「届けた荷の中に、フィリアが好きだった草花があって……ふと思い出した」
 彼女はもういない。
 でも、テルマの中で、彼女は確かに生きている。
 ある日、テルマは少女を助ける。
 野盗に襲われていた小さな村で、ただ一人、泣き叫んでいた幼い子を。
 その子は、かつての自分のようだった。
 怯えて、言葉もうまく話せず、ただ誰かの助けを待っていた。
 テルマは、手を差し伸べた。
 「……泣かなくていい。俺は“届ける者”だ。
  この手は、君を安全な場所まで運ぶためにある」
 それは、まるで祈りのような言葉だった。
 10年目の彼は、もう少年ではなかった。
 だが、心には今も、あの時の決意が燃えている。
 「誰かの命を、想いを、言葉を、必ず届ける」
 それが、彼の人生のすべてだった。
 たとえ、この道がどんなに孤独でも――
 彼女が、命を懸けて守った“人の未来”を、彼は今日も運び続けている。
ーーそれから少し経ったとき 
テルマの背には、運び屋の鞄。
 その中に、誰にも触れさせぬ布の包みが一つある。
 フィリアが生前、ずっと愛用していた深紅のマフラーだった。
 柔らかくも、色濃く、凛としたその赤は――
 かつて病に伏し、やせ細りながらも、最期まで気品を失わなかった彼女の象徴だった。
 「これは……肌寒いときに、おまじないになるから」
 そう言って笑った彼女の声が、今もマフラーには染みついている気がした。
 テルマは決して、それを首に巻かない。
 いや――巻けないのだ。
 自分がそれを身に着ける資格があるとは、思っていない。
 だが、旅路の途中、風の冷たい峠や、雨の吹きすさぶ夜には、
 荷の底からそっと取り出し、
 胸に、ほんのしばらくだけ、その深紅を当てて目を閉じる。
 「……フィリア」
 名を呼ぶ声は、かすれていた。
 誰にも聞かせることのないその音に、涙がにじむこともある。
 ある日、運びの途中で出会った少年が問う。
 「その赤い布、何かの宝物?」
 テルマは、しばし無言で、それを見つめた。
 「そうだな……命よりも、大切なものだ」
 そう答えて、彼はそれを鞄の底へ戻す。
 決して、誰にも譲れない。
 それは彼の痛みであり、祈りであり、彼の“生”そのものだった。

 彼女はもういない。
 けれど、彼女のぬくもりだけは、確かにそこにある。
 テルマは今日も、重い鞄を背に――
 その鞄の奥で、深紅の祈りを宿しながら、歩き続けている。

・6年前-風が止む場所、再び歩き出すとき


テルマは、名もなき街の片隅で、一人の少女と出会った。
 彼女は幼い弟の命を救うため、遠く離れた修道院へ薬草を届ける途中だった。
 だが、その小さな手に抱えられた袋は、あまりに軽く、
 深い森と山越えには到底耐えうるものではなかった。
 「兄が……迎えに来てくれるはずだったの。でも、来なくて……」
 震える声に、テルマは黙って耳を傾けた。
 どこか、かつての自分と重なるような、無力な祈り。
 守りたいと願ったのに、守れなかった想い。
 だからこそ、彼は迷わず言った。
 「俺が届けよう」
 それはただの配達ではなかった。
 誰かの“想い”を、命に届かせるための旅だった。
 吹雪の山を越え、盗賊を退け、
 満身創痍のまま、彼は修道院の扉を叩いた。
 ――薬草は、間に合った。
 少女の弟は助かり、涙ながらに家族が彼に頭を下げる。
 「ありがとう、命の運び屋さん!」
 その言葉に、テルマは一瞬、心がぎゅっと締めつけられた。
 命の運び屋――
 そう。
 かつて、命を懸けて書物を運んだ者たちのように。
 命を懸けて、自分を救ったあの少女のように。
 その夜。
 誰もいない星空の下、彼はふと、耳の奥に優しい声を聴いた。
 ――「テルマ。あたし、あなたの“生き方”が好きよ」
 それは、フィリアが最後に書き残した手紙の言葉だった。
 胸にしまい込んだ記憶の欠片が、音もなくにじみ出てくる。
 あの笑顔、あの気高さ、あの決意。
 彼はゆっくりと、鞄を開ける。
 取り出したのは、あの深紅のマフラー。
 今なら――
 少しだけ、身に着けてもいい気がした。
 くるり、と。
 首に巻いたそれは、思ったよりもあたたかくて。
 けれど少し、風の匂いもした。
 テルマは夜空を見上げる。
 満天の星々が、言葉もなく彼を照らしていた。
 「俺、まだ歩けるよ。――ありがとう、フィリア」
 そして彼は歩き出す。
 運ぶべきものは、まだこの世界にある。
 その首には、深紅の誓い。
 ――かつて守れなかった命の、証と共に。

製作者:冬月加奈