彼の幼少期は、道端に転がる石ころのようなものだった。
彼の周囲にとっても、彼にとっても。

まずは、過去の話からしていこう。
よくある中流貴族のお家の話だ。その貴族は人間の家系であったが、ある日アルヴの女を孕ませる。二人の間に愛情があったのか、事情があったのか、はたまた女にとっての悲劇でしかなかったのか、今となってはわからない。結局子を産んで女は死んだし、子は孤児院へ捨てられることとなった。血族に穢れたものがいるなんて、しかも穢れを招き入れるような真似を自らがしているだなんて、誰も許しはしないのだから。

さらによくある喜劇ではあるのだが、孤児院に捨てられたアルヴが青年となったとき、彼は生まれた家に引き取られることとなる。不幸な事故で貴族の血が途絶えたのだ。血の繋がるものは彼しかいない。そこにどの程度本人の意図が汲まれていたのかわかりはしないが、彼はその家の主人となり生きていくこととなる。外部にはアルヴであるということを隠したまま。

その行動が、復讐だったのか、ただの欲望だったのか。今となってはわかりはしない。
ただ貴族となったアルヴはよく女を買ったし、子を孕んだ女はそのことごとくが子を産んで死んだ。自分たちには3人程度兄弟がいることを子供たちはそれぞれ知っていたが、お互いに顔を合わせることはほとんどなかった。彼らは全員アルヴ。この家には、いないことのなっている穢れた種族。当然子供たちも、対外的には存在してはならなかった。

その子供の1人は、どうやら自分が望まれて産まれたわけではないと、察していた。察することができる程度の生活だった。
よく侍女たちはその子供に質問をした。
「ご飯を食べたいですか？」
この質問に答えなければ、食事を与えられることはなかった。はい。食べたいです。僕にご飯を与えてください。答え方はなんでもよかった。
「部屋から出たいですか？」
「本を読みたいですか？」
「着替えが欲しいですか？」
「浴場へ行きたいですか？」
「水を飲みたいですか？」
口を出して望まなければ何一つ与えてはもらえなかった。たとえ望んだとしても侍女の気分ひとつで与えられないことも珍しい話ではなかった。
特にひどいのは吸精の扱いだった。
一週間に一度なんて、与えられることはなかった。
「吸精を、させてください」
子供は侍女に、よくそう頼んだ。それに対して侍女は、クスクスと笑いながら子供を無視することが多かった。少しずつ重くなっていく体。立つのが辛い。呼吸が苦しい。視界が霞む。そうやって衰弱して、布団から起き上がれなくなって、それから
「生きたいですか？」
馬鹿にするように笑いながらされる質問に
「生きたいです」
途切れ途切れの、嘘をついて、生かされる。
生きたくなんてなかった。明日なんて来なければいいと思っていた。夜眠り、朝目覚めねばいいと願っていた。
衰弱していくのは苦しかった。苦しいのが嫌で吸精に逃げた。苦しいのも辛いのも惨めなのも嫌だった。楽な方、楽な方へ。少しずつその身を溶かして下水に流すような、そんな緩やかな自殺の繰り返し。
どこにも行けないのか、どこにも行かないのか。
そんな判断がつくほど、自我は明確ではなくて。

常に子供たちは各々の部屋に軟禁されていたが、ごく稀に外へ出られることがあった。それは客人が屋敷を尋ねるとき。幼い頃は使われない部屋に一日中押し込まれることが多かったが、年齢を重ねるにつれて外に出される頻度が増えていった。
決して見つかってはならない子供たち。見つかれば屋敷にとって拭いきれぬ汚名となる彼ら。彼らは歳を重ねるに連れて知恵がつき、ずる賢くなっていく。そして復讐に自らが使えるのだと、彼ら自身が気づくことも、予想には難くなかった。
それならば、外に出した方が安全だと。万が一にでも客人の前に飛び出されれば、閉じ込めていた手前言い訳などできないのだから。
馬車に乗せられ人気のないところに放られる。最低限の監視に従者をつけて。
ドゥイリオに対する監視の目が兄弟たちの中で最も緩かったのは、彼が最も従順だったからだ。
ドゥイリオは諦めていた。自分が何を諦めているかもわからなかったが、諦めてしまっていた。自信の尊厳を、自身の幸福を、誰かの愛情を、心からの安寧を、見たこともない全てを、感じたことのない何かを、諦めてしまっていた。だから彼は従順だったし、そんな彼を従者たちは馬鹿にしていた。
その日も従者たちは、適当なところにドゥイリオを置いていった。監視する必要すらないのだ。人気のない場所に放り捨てて待つように告げるだけで、木偶の坊のようにそこで待ち続けるのだから。従者たちはドゥイリオを置いて、馬車を街の方へと走らせた。

そのあとの出来事は、ドゥイリオの中にあまりに鮮烈に刻み込まれているというのに、なぜだか内容は判然としなかった。
彼の限界をはるかに超えた出来事は、脳の容量に収まりきらず。幾度も幾度も反芻するうちに、願望と欲望で変質して、原形を留めなかった。
その中でも確実あったものを羅列するなら。
性的快楽と死の恐怖。
悪辣に笑う男。
強制的に行われた半生の吐露。
男はまるで食事でも楽しむように、ドゥイリオの人生を咀嚼して嚥下していく。
ーーつまんねえ人生だなあ、ドゥイリオ☆
ーーおもしろい人生だな、ドゥイリオ☆
どちらも言われたかもしれないし、どちらも言われてないかもしれない。
ーー強く生きろよお☆ お前はもう自分の人生を、歩き始めてるんだからよお！☆
そうやって男が両手を広げ、オーディエンスたちがドゥイリオを激励するように拍手する。
ただただ眩しくて。忘れることなどできない時間だった。

スポットライトの下に立つことのない人生だった。
道端に転がる石ころのように。誰の気にも止められず。見知らぬものに蹴り飛ばされないことだけを毎日祈っていた。
だがそこでは、大勢がドゥイリオを見ていた。
初めて見つけられた。
初めて見出された。
そのサングラスをかけたナイトメアが、初めて自分を見てくれていた。

「あは…♡」
気付けば、仰向けで空を見上げていた。何度も見たことのあるはずの空。その青が、ひどく鮮やかだった。

使用人たちがその場所へ戻ると、そこにドゥイリオはもういなかった。顔面蒼白で周囲を探し回り、叱責覚悟で屋敷へ戻る。
そしてドゥイリオが消えた他は特に大きな騒ぎもなく、屋敷は不穏な空気のまま平穏を取り戻していった。

ドゥイリオの記憶はいつまでも判然としない。
あそこからどうやって街に来たのかも思い出せなければ、ベザルがいつから隣にいるのかもわからなかった。飢餓も衰弱もあった気はする。寒さも痛みもあった気がする。だがそんなものは、彼の人生では日常だったから。それをいちいち覚えてはいなかった。
ナイトメアの女性に手を引かれた気がする。彼女に悦の魔剣の分体のことを、ユエルツのことを語ったような気もする。
そうして彼女に促されて門を潜った、そのギルドから
「見つけたあ…」
彼の世界は、彩られていく。

部屋の中、ベッドの上に座り大人しくしている少年。彼の耳を、メイドたちの話声が掠める。
「本当に性格が悪いというか」
「自分勝手な人だったわよねえ」
メイドたちは楽しそうに笑いながら、汚れてもいない家具から埃を落とし、箒で集めている。彼の母がいかに高慢に振る舞い、悪辣に人々を蔑んでいたかを、甲高い声で興奮したように話しながら。
「ベッドのシーツを替えますから」
ドゥイリオに掛けられた言葉はその一言だけ。そう言われて彼はベッドから降りて、邪魔にならないように部屋の隅へと移動する。ぼんやりとした昏い双眸で、薄汚れた写真立てを見つめていた。

その思いは、彼が言葉にできるほどはっきりしたものではなかった。何もかも諦めて投げだした心にぽつぽつと生まれては消える、泡沫のような感情で。だがその熱だけは、心に残り続けるような。強くて儚い想いだった。
彼は、母親が羨ましかった。
死んでも誰かに見つめられる母が、羨ましかった。自分を見つめてくれる人は誰もいない。誰もが自分を通して、母を見ているような気がしていた。
僕を見て。僕を愛して。
言葉にならぬまま浮かんでは消える感情。それは実を結ぶことはなく、誰かに見つかることもなく。

ユエルツと一緒にいて、思ったことがある。別れは必ず来るのだと。だってナイトメアには寿命がないのだから。置いていかれる。取り残される。置いていってしまう。取り残してしまう。
その後すら、自分を想ってほしかった。
「ユエルツを、僕のものにしたいの…」
その太い首に両腕を巻きつけながら、そう願った。そう願っておきながら、実現するという実感は全く浮かばなかった。
ユエルツはみんなのことが好きだから。
自分がユエルツの唯一になることなどありえない。道端に転がるだけの小石を、誰が愛するというのだろうか。きっと何もかもを愛している彼以外は、自分を見つけてくれることすらできはしない。
僕を見て。僕を愛して。
みんなの中の一人でも構わない。ずっと、ずっと一緒に。
「ずっと、ずっと一緒にいてやるぜ？」
大切な言葉は、何度も思い出して心に刻んだ。
「お前が望む限り、永遠に一緒だ…死さえも二人を別たせないぜ？」
死ぬまで一緒。死んでも一緒に。そうやって願いながら、叶う方法を模索し続ける。一人でなど叶えられないものなのに、たった一人で彷徨い続ける。
手に入れているのに手を伸ばして。与えられているものに気が付かないまま。

ユエルツとの子をほしがったのは、そういった経緯からだ。
子供を見れば、親を思い出すだろう。ユエルツは自分との子供を見て、ずっと自分を想ってくれる。
自分の子供であれば、その目的は果たせるが。誰かと子供をなすのであれば、やはりユエルツがよかった。ユエルツ以外には、考えられなかった。
神の塔の奇跡がなければ、彼はどこかで女性を抱き、子供を作ってユエルツに紹介していたのかもしれない。そんな悲劇が起こらなかったことについて喜ぶべきなのかもしれないが。誰も気が付かない存在しない悲劇。それが防がれたことについて、誰も喜ぶことはできないだろう。

ドゥイリオは神に与えられた赤子を大切に、大事に抱きしめる。
ずっとずっと、この子を通してユエルツが自分を忘れませんように。ずっと僕を見てくれますように。
ずっと僕を、愛してくれますように…。
そう想って、自分のことだけを想って、ただのエゴに塗れて。愛おし気に子供を見つめていた。

(済)▶隙間を埋めるもの
場所：月狼亭
導入：月狼亭閉店間際、疲れたコウが自身の宿泊場所まで帰ろうとしている。
「コーウくん、今から帰るのお？」

(済)▶深夜のお出かけ
場所：月狼亭
導入：深夜、一人自室で鼻歌を歌っているドゥイリオ。研いだナイフとスルーピック、召異の徽章をもって、部屋を出ていった。

(済)▶赤い糸
場所：月狼亭
導入：鞘に納められた悦の魔剣を抱きしめて自室で横になる。ユエルツの帰りを待って、楽しくてたまらないというような顔をしている。
「ずーっと一緒にいてえ…♡　ユエルツぅ…♡」

(済)▶これ以外の守り方を知らない
場所：月狼亭
導入：もう日も落ちた時間帯。イレンからすれば拙い技術で、彼の後ろをつけるものがいた。
「僕が、ユエルツを守ってあげるう…」

(済)▶その場所は
場所：月狼亭
導入：依頼に行ったユエルツを、店側で待っていた。そこに現れたのは、あの日見たアルヴだった。