少女は1923年のドイツに生まれた。
ほかの子供と何も変わらない、ただの女の子としてとある小さな町に生まれた。
その頃はナチスが台頭し、ドイツにとって揺らぎの大きい時代であった。
それでも少女は普通に育てられていき、特に不満のない生活を送っていた。
……ナチスの保有している"遺産"の適合者として目をつけられるまでは。
少女の両親は当時、共産党に肩入れをしていた。それが一種のきっかけとなり両親は粛清され、少女は被検体として連れ去られた。
非人道的な、過酷な実験を耐えきって少女は生き延びたが、代わりにナチスのオーヴァード兵器として仕上げられてしまった。
兵器として彼女に与えられたコードネームは“赤ずきん”、その可憐な見た目をいくつかの政治要人の目を騙し、殺してきた。
たまたま目撃してしまった一般市民を運が悪いことで殺した。
ユダヤ人を密かに隠していたお医者さんを粛清の名義で殺した。
多くの人を殺し、数え切れないほどの血で手を汚れ。
あらゆるの希望を失いながらも、少女は生きていた、生きようとしていた。
ある日、少女に一つの命令がくだされた。簡単な監視任務だった。
彼女にとある男に近づこうとそう命令された、男は占領したばかりのポーランド出身で、先日占領地における反乱騒ぎに巻き込まれ、ひとりの女の子が目の前に死なせたと聞いた。
彼女の任務は、その男が反乱勢力と関わっているかどうかを調べ、粛清することだった。
死んでしまった女の子と顔似ているからことで、少女はその子の姉と装って、女の子の墓の前に"偶然に男と出会った"ことにした。
初対面の感想は、無愛想で冷たい男だった。
男は周囲に壁を作ったかのように誰も彼のことが理解できない、彼も頑に誰とも接触しようとしない。
それでも、「目の前に助からなかった女の子の姉」ということだけで、彼は冷たく対応しながらも完全に拒絶することはなかった。
男と町をめぐって、誰もいない荒廃した公園を通り抜け、薄汚いカフェテリアにで寂しげな夕暮れを眺める。
しょうもない話をする、過去の話をする、話せても問題ない話をする。
お互いに探り合うように他愛のない話ばかり、それでも薄氷を踏み通さないのは、何かが変わってしまうからか。
「おとぎ話をしよう」
ある日、いつものように街を繰り出し、古書店に足を踏み入れたところ。
見つかったのは一つの絵本、ドイツでよく知らされ渡っている《赤ずきん》の物語。
女の子はおばあちゃんに会いに行って、ところでおばあちゃんはオオカミに殺されて、オオカミがおばあちゃんの服をかぶってベッドに入っていた。
それを知らずに近づいていった女の子は、素朴な疑問を発する。
――どうして耳が大きいの?
--お前の声をよく聞くためさ。
――どうして目が大きいの?
--お前の顔をよく見るためさ。
――とうしてそんなに口が大きいの?
--おまえを食べるためさ。
「――そしてオオカミは赤ずきんを喰った……誰も助けにこなかったね」
はぁ、つまらない話、とため息をついて、少女は絵本を閉じた。
「……助けにきてほしかったか?」
ふと、男の口から放った言葉、それを物珍しくするように少女は目を瞬く。
「だって、おとぎ話はそういうものよ、なんやかんやで危ないことに遭うけど、なんやかんやで大団円になる。おとぎ話だからそのぐらいでいいじゃない?」
「……」
男はまたしばらく沈黙、そして少女がそろそろ待ちくたびれたころ、「そっか」と返事した。
おとぎ話をしよう。
むかしむかし、赤ずきんの少女と、オオカミの男がいた。
赤ずきんはオオカミの同情を騙して近づき、オオカミはそれを黙許した。オオカミのいる反乱組織もまた、ナチスの切り札である赤ずきんを脅威視していたからだ。
やがて時が来たれ、見るに見えぬフリをしていたものが無情に突き出されて、赤ずきんとオオカミはお互いに刃を向けることになった。
激しい死闘の末つい赤ずきんはオオカミを窮地に追い込み、トドメを刺そうとした。
しかし、さきほどまで一緒に戦っていた戦友が赤ずきんを撃ち抜いた。
『壊れた』兵器を、ナチスは必要としない。
なので、ここで赤ずきんとオオカミは仲良く死んでしまう、のはずだった。
どうして私を助けたの?
共に逃げ出したあと、どこかの地下水路で身を隠しながら、赤ずきんの少女はオオカミの男に素朴な疑問を発した。
……さ、助けてほしい、って目をしたからだろう。
オオカミは最初から知っていた、あるいは察しついたか。
赤ずきんは何のために近づいてきたことも、赤ずきんの組織は彼女を抹滅しようとしたことも。
それでも、オオカミにとって赤ずきんを助ける義理はなかったはずだ。赤ずきんはどの組織にとっても扱いにくい存在だからだ。
あなたはバカだ、と赤ずきんは言った。
ご褒美を預かってどうも、と、それを聞いたオオカミはしょうもないように応えた。
おとぎ話であれば、ここでふたりが奇跡的に包囲網から脱出し、遠く遠く誰も知らないところに逃げて幸せの毎日を送る、のはずだろう。
けど現実はそう上手くいかなかった。
ねぇ、ヤバかったら私を食べよう。
逃亡中のふとした拍子で、少女は自分の体のことを述べ始める。不老不死の遺産、それに適合してしまった自分、いつまでたっても変わらない、14歳のままの姿。
少女が受け継いだ遺産、それは契約者を不老不死にするだけじゃなく、契約者自身もまた生きている『遺産』となり、その血肉には人に不老不死を与える力が宿っていた。
なので、死にそうになったら私を食べよう、美味しくないかもしれないけど、生き延びれるかもしれないから。
少女は本気でそう言っていた、男は彼女の頭を静かに撫でて何も言わなかった。
おとぎ話をしよう。
むかしむかしのよりむかし、長生きしていたオオカミの男がいた。
男は誰かの気まぐれにより不老不死とされ、そのゆえに自分のように勝手に不老不死とされていた人を探し、助けようとしていた。
今度は、赤ずきんの少女を見つけた。絶望と諦観の目をもっている悲しき少女だった。
だが、今回ばかり敵が強すぎるようで、オオカミも赤ずきんも追い詰められた。
男は決意をしていた、少女を助けようと、この世にまだ希望が残っているのを伝えようと。
男は死を悟っていた、けど自分が死しても、少女に希望があることさえ伝えたのであれば、残されたそれは断ち切られることはないだろう。
全てを賭けて戦い、全てを燃え尽きるように抗い、死闘の後に戦場のど真ん中にやってきた少女は、倒れた男の頭を自分の膝の上に置いた。
あなたはバカだ、と赤ずきんはまた言った。それに対して返事したかったが、オオカミには余力が残っていなかった。
最後の贈り物だ、受け取れ、とオオカミは言った。男は少女と同じ遺産を受け継いだ身だからだ。
その時少女は分かった、理解した。男は自分に生きてほしいのと、それはすなわち『希望』という名の呪いのようなものだと。
ああ、なんて残酷な、身勝手な、傲慢な男だろう。男は希望を抱えて生き、希望を抱えて死に、今度は希望の呪いを誰かに押し付けようとした。
でも、これも仕方ないこと、どうしようもないこと。
愛を超え、憎しみを超え、我が愛しき仇敵にして、我が運命のようなもの。
それを気づいた瞬間、赤ずきんは最後の最後で、気づいていけないことを悟った。
仕方ないね、しょうがないね。その呪い、受け取ってあげよう。私の恋した、恋してしまったあなた。
オオカミを喰らった赤ずきんは、一夜にしてナチスのとある施設を壊滅に追い込み、焼き払ったあと、何処に去っていった。
おとぎ話はここでおしまい。赤ずきんはどこに行って、今は何をしているのか、誰一人知るものはいない。
ただひとつ言えるのは、赤ずきんはきっと、かつてのオオカミのように『希望』を探していた。
それはオオカミの抱えていた呪いのようなもので、今度赤ずきんはそれを果たそうと、何かを探していた。
たった一度の運命、たった一度の恋。絶望の中でもなお藻掻く、美しく輝く魂。
それが、赤ずきんにとっての『オオカミさん』だから。
――私のオオカミさんに、なってくれる?