“Hồ tinh (狐精)”菱池 キク
プレイヤー:中野
- 年齢
- ええと……昭和8年生れでございます
- 性別
- おばあさん
- 星座
- 星占いには関心が薄いもので……
- 身長
- 158
- 体重
- 55
- 血液型
- さてどうだったか……
- ワークス
- UGN支部長C
- カヴァー
- 放課後学習クラブ職員、大東流合氣柔術師範代、民生委員
- ブリード
- クロスブリード
- シンドローム
- ノイマン
- ウロボロス
-
-
- HP最大値
- 34
- 常備化ポイント
- 24
- 財産ポイント
- 3
- 行動値
- 16
- 戦闘移動
- 21
- 全力移動
- 42
経験点
- 消費
- +360
- 未使用
- 0
フルスクラッチ作成
ライフパス
| 出自
|
| 良いお家 |
| 経験
|
| 戦争 |
| 邂逅
|
| 家族 |
| 覚醒
| 侵蝕値
|
| 感染
| 14 |
| 衝動
| 侵蝕値
|
| 恐怖 |
17
|
| その他の修正 | 8 |
| 侵蝕率基本値 | 39 |
|
能力値
| 肉体 | 4
| 感覚 | 5
| 精神 | 6
| 社会 | 5
|
| シンドローム | 0+1
| シンドローム | 0+1
| シンドローム | 3+2
| シンドローム | 1+0
|
| ワークス |
| ワークス |
| ワークス | 1
| ワークス |
|
| 成長 | 3
| 成長 | 4
| 成長 |
| 成長 | 4
|
| その他修正 | 0
| その他修正 | 0
| その他修正 |
| その他修正 |
|
| 白兵 | 12 |
射撃 | 7 |
RC | 1 |
交渉 | 8 |
| 回避 | 12 |
知覚 | 9 |
意志 | +1=13 |
調達 | 7 |
| 運転:二輪 | 4 |
芸術:絵画 | 1 |
知識:20世紀ベトナム | 5 |
情報:UGN | 1 |
| 運転:四輪 | 5 |
芸術:写真 | 1 |
知識:ゲリラ戦 | 8 |
情報:裏社会 | 2 |
| 運転:船舶 | 3 |
| |
知識:機械操作 | 3 |
情報:軍事 | 2 |
| 運転:馬 | 2 |
| |
知識:医療 | 6 |
情報:学問 | 2 |
| |
| |
知識:心理 | 6 |
情報:ビジネス | 2 |
| |
| |
知識:狩猟 | 4 |
情報:ウェブ | 1 |
| |
| |
知識:学問 | 5 |
情報:N市 | 4 |
| |
| |
| |
情報:警察 | 1 |
| |
| |
| |
情報:福祉 | 4 |
ロイス
| 関係
| 名前
| 感情(Posi/Nega)
| 属性
|
| 状態
|
| Dロイス
| G01.選ばれし者
| 有為 |
/
| 悔悟 |
|
| 義理の曾孫
| 本山玲
| 幸福感 |
/
| 不安 |
WH |
|
| 仇敵
| 河渡公威(仮)
| 同情 |
/
| 不快感 |
OR |
|
| 離反者
| 賢崎蓮矢(シナリオ)
| 連帯感 |
/
| 隔意 |
OR |
|
| 同胞
| 天城 流星
| 有為 |
/
| 疎外感 |
GR |
|
| 尊敬できる部下
| 白水 氷彗
| 尊敬 |
/
| 悔悟 |
GR |
|
| 生徒
| 放課後学習クラブの生徒達
| 憧憬 |
/
| 隔意 |
WH |
|
エフェクト
| 種別 | 名称 | LV | タイミング | 技能 | 難易度 | 対象 | 射程 | 侵蝕値 | 制限
|
|
| リザレクト
| 1
| オートアクション
| ―
| 自動成功
| 自身
| 至近
| 効果参照
| ―
|
| (LV)D点HP回復、侵蝕値上昇 |
|
| ワーディング
| 1
| オートアクション
| ―
| 自動成功
| シーン
| 視界
| 0
| ―
|
| 非オーヴァードをエキストラ化 |
|
| コンセントレイト:ウロボロス
| 2
| メジャーアクション
| シンドローム
| ―
| ―
| ―
| 2
| ―
|
| クリティカル値を-Lv(下限7)。 p129 |
|
| カウンター
| 2
| リアクション
| 〈白兵〉〈射撃〉
| 対決
| 単体
| 武器
| 4
| 80%
|
| 「タイミング:メジャー」と組み合わせ可。自分に「対象:単体」攻撃をされた際リアクション&攻撃として使用。対決の勝利者の攻撃が命中する。未行動時のみ使用可能。使用後行動済になる。シナリオLv回まで。 p93 |
|
| チェンジ
| 1
| オートアクション
| ―
| 自動成功
| 単体
| 至近
| 3
| 100%
|
| 対象への「対象:単体」攻撃判定直後に使用。対象を自分に変更。ラウンド1回。 p93 |
|
| 原初の紫:孤独の魔眼
| 2
| オートアクション
| ―
| 自動成功
| 効果参照
| 視界
| 5
| ―
|
| 自分を対象に含む「対象:範囲、範囲(選択)」判定の直前に使用。それを「対象:単体(自分)」にする。シナリオLv回まで。 p30 |
|
| 原初の黄:空間圧縮
| 1
| セットアッププロセス
| ―
| 自動成功
| 単体
| 視界
| 2
| ―
|
| 対象は対象の意思に基づいて戦闘移動を行う。シナリオLv回。 p30 |
|
| 無形の影
| 1
| メジャーアクション
| 効果参照
| ―
| ―
| ―
| 4
| ―
|
| あらゆる判定と組み合わせられる。判定は【精神】で行う。1ラウンド1回まで。p124 |
|
| 影絵の兵士
| 1
| メジャーアクション
| シンドローム
| 対決
| ―
| 視界
| 2
| ―
|
| ≪無形の影≧と組み合わせ、射程を「視界」に変更する。1シーンLv回まで。p121 |
|
| イージーエフェクト1Lvずつ13個
|
|
|
|
|
|
|
|
|
| 暗号解読、完全演技、究極鑑定、構造看破、写真記憶、代謝制御、ドクタードリトル、プロファイリング(p93)、 イージーフェイカー:(七色の直感)、禁じられし業、消去の号令、まだらの紐(p127)、 無面目(p133)[経験点修正:+26点] |
| 武器 | 常備化 | 経験点 | 種別 | 技能 | 命中 | 攻撃力 | ガード 値 | 射程 | 解説
|
| 素手
|
|
| 白兵
| 〈白兵〉
| 0
| -5
| 0
| 至近
|
|
| 伸縮性警棒
| 2
|
| 白兵
| 〈白兵〉
| 0
| 2
| 0
| 至近
| オートアクションで装備可 (シルバーカーの部品を武器として使っている)
|
| 特殊プラスチックシールド
| 4
|
| 白兵
| 〈白兵〉
| -2
| 1
| 4
| 至近
| (シルバーカーの部品を盾として使う。基本的に装備しない演出用アイテム)
|
| ヴィークル | 常備化 | 経験点 | 種別 | 技能 | 行動 | 攻撃力 | 装甲値 | 全力 移動 | 解説
|
| 乗用車
| 8
|
| ヴィークル
| 〈運転:四輪〉
| -4
| 10
| 6
| 100m
|
|
| 一般アイテム | 常備化 | 経験点 | 種別 | 技能 | 解説
|
| チョコレート(思い出の一品)
| 2
|
| その他
| <意思>
| <意思>の達成値+1
|
| 応急手当キット
| 3
|
| 使い捨て
|
| おばあちゃんは薬や絆創膏を持ち歩いてる。非戦闘時にメジャーアクションを使用してHPを2D10回復
|
| モバイルPC
| 2
|
| その他
| 〈情報:ウェブ〉
| <情報:ウェブ>のダイス+1
|
経験点計算
| 能力値
| 技能
| エフェクト
| アイテム
| メモリー
| 使用総計
| 未使用/合計
| 110
| 234
| 146
| 0
| 0
| 490
| 0/490
|
|
容姿・経歴・その他メモ
N市公立高校の生徒も通う、放課後学習クラブでボランティアをしているお婆さん。
ここはNPOが運営する「自習室+質問もできるよ」くらいの所だけど、通称「裏教室」がある。勉強が好きな生徒達が職員を巻き込んでワイワイ話しながら勉強で楽しむ場所で、入るためには専門の課題(通称「ハンター試験」)が課される。内容は、好きな勉強や日々考えた事を思いっきり話す、つまらないテキストを使って面白いところを探したり無理矢理作る、逆にスタッフに質問してみる、誰それとの喧嘩を終らせる、といったもの。要するに、学問自体に興味があるか、仲間を尊重した対話ができるかを見てる。
放課後学習クラブの他には、大東流合氣柔術の師範代や民生委員も務めている。
穏やかな人で、殺す時も結構おっとり。
オーヴァードとして発現する特性は「自分の状態や能力を回復すること」くらいで、オーヴァードらしさがあまりない(→EE無面目)。
ゲリラ戦の経験からか、部下への細かいマネジメントは最小限にして現場の裁量を大きくしつつ、そのサポートを頑張って経験を積ませて個々人に育ってもらう方針の、ある意味厳しいタイプ。
ただ、聞かれると嬉しくなってつい色々と相談に乗ってしまう。
略歴:戦中に親族家族を亡くす → 戦後に武術を学び始める → ベトナムの惨状を見てベトナム戦争に参加 → 暴力被害者支援に移行 → 帰国して貿易会社や婦人保護施設(当時)で働いたりしつつ、武術の師範代をしたり古代レベルの武器で狩猟をしたり → 定年退職して民生委員や放課後学習クラブなどのボランティアを始める → 脳障害を発症し殆ど何もできなくなったが奇跡的に回復する(実はこの時に覚醒していたが誰も気付かなかった) → ジャームの暴走に遭遇してとりあえず武術で倒したためUGNの検査を受け、オーヴァードだったことが判明。コードウェル事件による人材不足もあって支部長になる。
オーヴァード的にはまだまだ新入生✨
PLより:最近若いキャラクターが続いていたので高齢PCを使いたくて。戦闘時の立ち回りは、強者っぽさを感じた白兵カウンターの浪漫構成。あと、ベトナム戦争を入れたくて、そうするとなぜか暴力被害者支援に繋がりました。放課後学習クラブは、『窓ぎわのトットちゃん』の影響と、他のPC,NPCが高校生だから使いやすそうなのとで生えました。エフェクトの大半は“覚醒以前に身に着けて一度は脳機能障害で失った能力が、覚醒で回復した”という設定です。
PCによる、と~っても長~い自己紹介↓(極悪非道の1万6千文字😅 読まなくてOKです)
項目一覧 ①幼少期 ②戦時中 ③戦災孤児 ④復讐と先生 ⑤先生の死、ベトナム戦争へ ⑥解放戦線 ⑦暴力被害者支援と帰国と養子 ⑧婦人保護 ⑨定年退職後 ⑩オーヴァード
①幼少期
私は昭和八年、西暦1933年の八月九日、四男二女の末っ子、菊子として生まれました。まだ東京山の手でも空き地があり、牛も歩いているような時代でございます。子供等は他所のお庭を好きに通り抜け、はやし歌を歌い、道や壁に蝋石で落書きをし、紙芝居に夢中になりしておりました。私は親譲りの不器用でございますからお手玉おはじきは不得意、かくれ鬼はいつまで経っても見つけてもらえないためにあまり好まず、ピアノもバレエもものにならず終いでございます。好きなのは、ただ好きな子供や大人と一緒にいること。独りなら「お散歩」と称してあちこちを歩き回っては草木を拾い集め、家の中では本やラジオに耽っておりました。ラジオを聞いては物真似をしますと、どうしても落語の伝法な言葉も混ざるので祖母にはよく怒られました。活字は何でも読み、軍靴の音が高くなっても仲間内で「○ちゃんが花物語のどれをもっているから」など、「不謹慎」な本も融通し合っておりました。
この闊達さは、通っておりました学校の影響も大きゅうございます。お祖母様のお友達が先生をなさっていた、プロテスタント系の愉快な私立小学校でございました。プロテスタントと言いつつ、先生方はカソリック、ユダヤ、曹洞宗、真宗、無神論等様々で、振り返ってみますと、教育課程も随分柔軟に誤魔化しており、英語の授業ができなくなるとドイツ語……と言いつつ、のっけから「Guten Morgen! これは英語だと Good morning! と同じ言葉です」でございました。途中で名目上の校長先生が陸軍の何やらという偉い方に替わったのも工夫の一環かと思われます。
②戦時中
とはいえ戦争の落す影は濃いもので、父は肺病で徴兵を免れましたが上の兄二人は太平洋と仏領インドシナで他界しました。
食糧は不足し、空襲を受けるようになり、疎開の話も出てまいりました。けれど私は疎開が嫌で、生まれて初めて親に強く抵抗しました。私には「伊予」という、生まれた時から一緒に育った犬がおりました。私にとって一番親しい家族は伊予で、奇妙に聞こえるかもしれませんけれども、互いに言葉も解っておりました。ただでさえ「お國に犬を献納しませう」という圧力が強い時代、疎開すれば伊予は確実に置いて行かれ殺されてしまいます。
元々田舎にあまり良い縁故がなかったこともあり、疎開が先延ばしになっている間に父は元々の病に栄養失調が祟って伏せり、私達は父方の伯父一家に身を寄せることになりました。慣れぬ下町に居候の身、窮屈な日々であったことを憶えております。庭で芋や南瓜など育てるだけでは足りず、それまで友達であった鳥たちを捕ることになったのも辛うございました。けれど直に、辛いでは済まされないことになりました。東京大空襲でございます。防空壕が崩れて父と兄達と伯父一家は生き埋めになり、伊予は行方知れずできっと殺されてしまったのでしょう。一切を失った母と姉と私は、母方の伯母夫婦を頼り、何日もかけて長崎まで逃げ延びたそうです。私はその時分の記憶がほとんどございません。ただ、「私のせいだ」と思っていたことだけを、憶えております。
③戦災孤児
いつの間にか私は長崎で満12歳になり、勤労奉仕に出ることになりました。家族の他の者は市街地の部品工場でございましたが、私だけは松脂取りに回されることになり、松林に続く道を上っている時、街に原爆が落ちました。夏の昼間でもわかるピカッというものすごい光が走り、少し遅れて轟音が。反射的に隠れて暫く待ち、追加の爆撃がなかったため市街地に向いましたが、伯母夫婦の家や工場があった辺りは人の生き死にどころか地形まで変わっており、更に道すがら見たものがあまりに恐ろしく、私は逃げ出しました。
家族の死を受け止められないまま他に行きようもなく、元の予定通り松脂取りの手伝いに向いましたが、大人達は市街に向ったのか1人も残っておりません。他の勤労奉仕の子らと一緒に呆然としていると、吸い寄せられるように一人の女の子と目が合いました。どちらからともなく隣り合って座り、交わした言葉は「不思議な目をしていらっしゃるのね」「あなたも」「きっと今だけよ」「きっと私も……安心ね」といった、端からすれば奇妙なものでございました。私達は同じ星に生まれた子らのようでございました。単に境遇が、同じように東京で焼け出されて長崎に避難してきた子供というだけでなく、今まで考えてきたこと、漠然と感じてはいたけれど言葉にする糸口もなかったこと、そういった諸々が驚くほど通じ合っておりました。こうして私が驚いていることにこの子も同じように驚いており、この子の驚きを私がしっかり理解しているという感覚さえも、共有しておりました。
それからの1年弱は、生涯で一等幸せな時でございました。確かに物質的には、後にも先にもこれほど飢えたことはございません。けれど、どれほど飢えていても、寒さで死にかけた時でさえ、魂はこれ以上ないほど満たされておりました。そのまま一緒に死んだとしても、この上なく幸福でございました。私達は原爆以降、雷が心底恐ろしくなりましたけれども、2人でいれば、原爆や雷よりお互いのことを感じていられました。
その子の名前は最初の内は「チヨ」で、私は「菊子」でございました。けれどチヨは、私やチヨのお祖母様のように、漢字で書かれて「子」の付く雅な名前に憧れがあったのだと言いますし、私は私で、学校で担任をしてくださった素敵な先生のように、そしてチヨのように、片仮名二文字の名前の方がすっきり凜としていて羨ましゅうございました。そこで、私達は名前を少しずつ交換して、チヨは千代子に、私菊子はキクに、改めたのでございます。折角だから苗字も新しくしましょう、と思いついて、その話をした処が菱の咲く池の畔でございましたから「菱池」と致しました。その後で千代子は「そういえば私、チョコレートがとーっても好きなの。チヨよりチヨコのほうがチョコレートに近くて嬉しいわ」と笑いました。
私達は私達の幸福のために懸命に働き、知恵を絞りました。孤児院も考えましたが、2人一緒にいられるかが心配で他の子に話を聞いてみたところ、孤児院では孤児に回すはずの食べ物を職員が横領するから皆飢えて死ぬのだと言います。2人で「それならこのままの方が良いわね」と微笑み合って、浮浪児を続けました。最初の内は他の戦災孤児と同じく、鉄道に無賃乗車をしてドサ回り――あちこちの農村に行って食料を恵んでもらう生活をしておりました。けれど駅には人攫いがいる上に、農家に辿り着いても「また浮浪児か」という目で見られ、食べ物がなかなか手に入りません。腐っていない残飯は元々が少ないためか、はしこい誰かが先に見つけているのか、滅多に見つかりません。食中毒で死んだ孤児を看取ってからは更に恐ろしゅうございました。盗みは気が咎めるだけでなく、余程の好機でなければ鈍くさい私達には荷が重すぎます。私達は飢えより、捕まって離ればなれにされることを恐れました。夜露を凌ぐのさえ一苦労でございましたから、ここは考えを変えて、多くの子らとは逆に駅から遠く離れた山奥の集落を当ることに致しました。山には罠や毒蛇などの危険もございますけれど、こちらの方がまだ順調でしたし、そうしている内に小さな――家が六軒しかない集落で空き倉庫に住むのを許されました。炭焼きや狩られた獣の処理を手伝うと少しばかり品物を分けてもらえ、仕事がない時は山で食料や燃料を集め、なんとか冬を越しました。
戦争はいつの間にか終っておりましたけれども、戦災孤児の暮しが上向くわけでもありません。ただ、長崎などの街にはアメリカの進駐軍(占領軍と言ってはいけないそうです)がいるという話は耳にしておりました。やがて山奥にまで「米兵に“Give me chocolate!”と言うとチョコレートがもらえる」という噂が届きました。チョコレート!! 私達は梅雨の合間を縫い、丸二日かけて長崎の街へ行きました。けれど筋骨隆々の米兵達が大きな声で喋っているのを見るとやはり恐ろしく、身がすくんでしまいます。暫く街を彷徨い、1人で静かに腰掛けている米兵を見つけました。片手にはお酒の瓶らしきものを持って鼻歌を歌って、機嫌が良さそうです。恐怖よりチョコレートへの渇望が勝った千代子が先に「もし、もし」と声を掛けました。米兵がピタッと鼻歌を止め、私達を睨みました。お楽しみの時間を邪魔されて怒っているのかもしれません。千代子はめげずに「ぎうーみ、ちょこれーと」と言いました。米兵が苛立ったように英語で何か言いました。私は恐ろしくなり、千代子の服の裾を掴んで止めようとしました。けれど一瞬早く、千代子はさっきより大きな声で「ぎうーみ、ちょこれーと!」と言って、米兵の服にある膨らみに手を伸ばしました。刹那、米兵が恐ろしい形相で怒鳴りながら電光石火の早業でその膨らみ部分から拳銃を取り出し、銃床で千代子を殴り倒しました。次に恐怖に固まった私を蹴って塀に叩きつけました。倒れている千代子は微かに「ごめ……なさ……」と言っていますが、米兵は聞く耳を持たずに千代子の頭を思いっきり蹴り飛ばし、物凄い音がしました。
私がようやっと動けるようになった時、千代子にはまったく意識がなく、微かに痙攣するのみでございました。呼びかけても手を握っても何も反応がなく、次第に痙攣すらもなくなり、呼吸も止まっておりました。
やがてどこからかお巡りさんが来て私をどこかに連れて行こうとしましたが、私は、冷たくなり始めた千代子の体に縋って必死に抵抗致しましたので、まとめて警察署に運ばれました。何か聞かれたものの、まともに答えられたかどうか判りません。辛うじて残っている記憶も、実際のことなのか悪夢なのか。けれど千代子からは絶対に離れようとせず、ご不浄に行く時も抱えて行ったのは確かなように思います。お巡りさん達は私を千代子から引き剥がそうとしましたが、私があまりにも命懸けでしがみついたせいか、情に訴えかけ始めました。「この子、千代子さんかな? このままにしておくのは、千代子さんにとってもあまりに可哀想だ。血の跡を拭ってあげようじゃないか。服も、もう少しまともに整えてあげた方が良いと思わないか?」など、手を替え品を替え語りかけました。また、同情したお巡りさんの1人がどこからかチョコレートを持ってきてくださったので、冷たくなった千代子の口に入れようとしましたが、千代子の体は顎の筋肉まで硬直しておりました。こういった諸々が少しずつ私を冷静にし――いえ、諦めさせ、腐り果て虫が湧く前に葬儀を行わなければならないと認めさせました。
④復讐と先生
火葬の後になっても、千代子を殺した犯人も判っているのに、お巡りさんは「残念だった」と言うだけで聴取もしません。どれだけ叫んでも正論をぶつけても情に訴えても、困った顔をするのみ。それなら火葬の時、私が火に飛び込むのを止めなければよかったのに。警察に抱いた怒りはやがて、私自身と犯人の米兵という正しい矛先を見出しました。私の傷が癒えた時、あの米兵に復讐せずにはおけぬと確信致しました。千代子の仇を討つ、そして本懐を遂げた後は拷問を受けて殺される、と。やってみればあっけなく盗み出せた大ぶりの出刃包丁を懐に隠し、市内を歩き回って敵の行きつけを見つけ、隠れて様子を伺い続けました。ある夜とうとう、敵が酔ったまま1人で歩いているという好機に巡り会いました。私が隠れていた廃材の陰から出て出刃包丁を抜いたその瞬間、不意に後ろから肩を叩かれました。跳ね上がるように振り返ると、そこには初老の痩せた日本人男性。彼は何の前置きもなく「止めろ」と言いましたが、私は一言も返事をしません。暫く沈黙が続いた後、男は「止めないのならば米兵に密告してやるか。酒代の足しにはなる」と独りごちて米兵の後を追おうとしました。密告されれば私が殺されるだけでなく、仇討ちの機会も二度となくなります。慌てて立ち塞がろうとしましたけれども、不思議に間合いが外れて抜かれてしまいます。追いすがろうとすると男が振り向き、「密告されたくなければ俺に手傷の1つでもつけて止めてみろ。両腕を使わないでやる」と言います。手傷どころか、こうなったら米兵の前にこの男を殺すしかございません。私の命と千代子の仇討ちを酒代にしようとしているのです。しっかりと包丁を握り、腹を刺そうと致しました。基本的な戦い方は竹槍訓練で学び、包丁で刺し切りつける動きも、復讐を決意してから何度も練習しておりました。けれど、文字通り手も足も出ません。目の前の男に指1本も触れられていないのに何故か吹き飛ばされ、倒れたところに視線を向けられただけで動けなくなり、足の指1本を踏まれただけで不自然に呼吸が止まり……。その男は何か、人間が動く時の気配のようなものを全て支配しておりました。男が私を捨て置いて米兵の方へ向おうとすると、私は立ち上がって再び切りつけようとしますが、やはり掠ることさえできません。不意打ちのように草履を飛ばしてみても、倒された時にこっそり握った砂を顔に投げつけても、民家にあった網を取って背後から投げても、まるで意味がございません。気力だけで疲労の限界を超えて挑み続け、転がされること何百遍目かでとうとう私の体は微塵も動かなくなりました。私は、千代子の仇討ちを果たせないまま米兵に引き渡され殺されるのでございます。相手が些かも息を乱さず平然と立っているのを目だけ動かして睨み付け「私がこれほど強かったなら」と悔しさで腸が煮えくり返っておりますと、その男は唐突に「強くなりたいなら……俺の小間使いをするならば『これ』を教えてやる」と言いました。
こうして私は小間使い兼弟子という名目で、保護されたのでございます。
千代子を殺した米兵は、配転があったのか、すぐに消息が判らなくなってしまいました。仇を討っても何も解決しないと解ってはいても、やりきれない思いでございます。あの時私が米兵に対処できていたら、恐怖と痛みに負けずに動けたら、という思いは今でも消えません。
一方私自身は、虜囚の身でありながら謎の男を「先生」と呼ぶことになりました。私は住み込みの小間使いとして先生の身の回りのことをあれこれ行いますが、それらを言われる前の丁度良い時に行わなければなりません。例えば、先生が出かけるために立ち上がった時には、既に上着を持っているように。先生がお茶を要求した時に丁度お茶が淹れられているように。要するに、人の気配を予め読む必要がございます。けれど、何かないかと気を張っていると今度は「お前の気配が五月蠅い」と言われます。張り詰めず自然な心持ちのまま、最大限に注意を払えなければなりません。実際に武術を習うと、この先生が怪物のように強いだけでなく、ありとあらゆることを把握しているかのように感じます。
そして小間使いとは別に、学校にも行くことになりました。身寄りのない孤児が義務教育のはずの小中学校に通おうとしても反対運動が起きるような世の中で、私は先生がいたために恵まれておりました。学校の設備も教員の先生も不十分とはいえ、私は積極的に学ぶ必要もございます。先生に新聞を音読することも、小間使いの仕事になっておりましたから。それもただ読めばよいというものではなく、先生に「どういうことだ」と聞かれ、詳しい背景や理由まで説明を求められます。曖昧だと更に質問が来きますけれども、解らなければ持ち越しになり、記事を切り抜いて後で調べることになります。きちんとした根拠に基づいて解説できると、先生はほとほと得心したという様子で微笑み「成程、成程」と言うので、私もついつい熱心に勉強を致しました。私は本当に運がようございました。ただ、閉口したのは昭和二十四(1949)年の11月でございます。新聞では「湯川博士にノーベル賞」「中間子の存在を予言」といった見出しが連日踊りました。当時からすると、多くの人が「日本もまだ捨てたもんじゃない」と実感できた大事件、恐らく戦後初めての喜ばしい大ニュースとはいえ、私には肝心の「中間子」なるものが全く理解できず、解説できるようになるまで大変な苦労を致しました。
幸いは続き、浮浪児であったことを隠し通したまま中学校を卒業でき、引き合いがあって事務員として働けました。パソコンもコピー機も電卓もない、今よりずっと沢山の事務員が必要な時代でございました。現在から見ると労働時間は随分長い一方で暇な時間もあり、そういう時は勉強せよと言われておりましたから、有志で勉強会や読書会を開きました。何もしないと「青空教室のお人は学がない」などの嘲りが事実になってしまいますしね。
二十歳頃、先生から遠回しに、結婚するつもりはないのかと聞かれました。その時分には先生の教育の賜物で随分と物を言うようになっておりましたから、「どなたかと縁付くつもりはございませんし、私を打とうとする夫にも都合が悪かろうと存じます」と申し上げた(PL註:当時、夫が妻を殴るのは“よくあること”だったが、キクはそれにカウンターを決めると言った)ところ、先生が「悪かった」とお詫びになったので、大変吃驚致しました。私は寧ろ大変感謝しておりますけれども、何れにせよ、爾来結婚はしておりません。仕事と勉強と、何より武術に明け暮れておりました。
⑤先生の死、ベトナム戦争へ
昭和三十三年(1958年)の年明け頃、先生は明らかにご病気でございましたのに病院に行かないため、近所の皆で説得して診察を受けていただきました。結果は、原爆症で全身に癌が出来て手の施しようがない、というものでございます。先生は「だから病院なんぞ行かなくて良いと言ったのだ」と何故か偉そうにふんぞり返り、数ヶ月して亡くなりました。自宅での臨終が多い時代でございます。私や近所の皆様とお医者様で先生を見送った時、枕の下から遺言書が見つかりました。とりあえず代表という事でお医者様が開いて一読すると、絶句なさいます。無言で遺言書を渡されて読みますと「葬儀無用 墓地無用 煩わしい上に生臭坊主等に金を吳れてやるのは癪である 死體は肥溜に叩き込んでおけばよい 俺は天涯孤獨であるからして財物が殘つておれば全て菱池キクに相續させる 好きに處分し好きに生きよ」とだけ書かれております。形式も内容も余りに破天荒でございました。
流石にこの通りに実行するのは外聞が悪すぎて途方に暮れていたところ、墓地云々に関してはお医者様が「故人一流の諧謔は見られるものの、宗教的信念及び実利を重んじられているご様子。ここはABCC(原爆傷害調査委員)に献体なさってはいかがか」とご提案くださり、ご近所の皆様の賛成もあってそのように致しました。葬儀の代りに現代の「お別れの会」に似たものを開き、あれこれの手続に明け暮れていたある日、先生の旧友とおっしゃるK様がおいでになりました。先生にとっては、かつての同級生であり、雇い主であり、弟子でもある――つまり私の兄弟子に当る――方で、普段はベトナムで貿易会社を経営していらっしゃるとのことでございました。先生のこと、お互いのことをお話ししていると、先生が昔から型破りであったこと、私達二人共驚き楽しみながら振り回されてきたことがよく判りました。お帰りの際に「妹弟子には初めて会った」と仰って握手を求められましたので、私は礼儀を重視した、武術的なあれこれを抜きにした握手でお応えしました。K様は、参ったな、といった風情の笑みを浮かべてから「ご婦人には失礼に当るかもしれないが、【妹弟子と】握手を交わしたい」と直裁にお求めでしたから私も観念して、今度は武術の理合で握手致しました。手を離した後、K様は「いや、久しぶりに肝が冷えた。キクさん、どうでしょう、ベトナムに来てうちの会社で働きませんか」と仰いました。やはり先生のご友人でいらっしゃいます。更に「聞けば兄君の墓地も北ベトナムにあるのだから、お墓参りだけでも是非一度お越しなさい。明日、また参りますよ」と付け加えてその日はお帰りになりました。先ほどの会話で私の能力、特にどのくらい英語の通訳を出来るかなど熱心に聞いていた理由が、この時に判りました。私の一番上の兄は太平洋で艦ごと、たすかりようもない死に方でございましたけれども、二番目の兄は戦死の状況が今ひとつ判りません。更に当時、「死んだと思われていた兵隊さんが帰ってきた」という話はたまに聞きました。けれど翌日K様に「お世話になります」とお願いした一番の理由は、「他の国を知りたい」という気持でございました。
K様のご協力もあって、ハノイ(北ベトナムの首都)に渡って半月も経たないうちに、兄の墓は見つかりました。元々、兄の生存を期待していた訳ではなく、私が本当に天涯孤独であると確認することが動機でございましたから、気落ちは致しません。ただ、私の心に残った別な話がございました。K様の部下の日本人の方が現地の案内をしてくださる際、「太平洋戦争の終りに、この辺りでは大量の餓死者が出た。こっちの政府は『フランスと特に日本が米を奪って200万人が死んだ』と言っている。きっと恨まれているから君も用心した方がいい」と忠告を下さいました。言われてみれば、大戦末期に「外米」という変わったお米を食べた記憶が、確かにございます。
「もっと知らなければ」という思いを強くした私は、ベトナム各地を旅し始めました。1958年当時、特に南ベトナムではアメリカの支援を受けた政権が暴政を振るい、私は「苛政は虎よりも猛し」という古い言葉の実態をまざまざと見ました。政府は、土地の強奪、小作料引き上げ、強制労働、無法な収監、家屋財産の破壊、暴行、殺害を繰り返しており、とある村で私も他の人々とまとめて「共産主義者」の容疑をかけられました。そのままでしたら十数人が収監されるところで、コイさんという方が「自首」なさいました。ただ、村の方々の驚き様を見ると、あの方が本当に共産主義者だったのかどうか、私は今でも疑問に思います。そして兵士達は「他の仲間を吐け」と言って三人がかりで彼女に激しい暴行を加え始めました。物凄い音がし、コイさんの体が痙攣しているのを見、私は考えなしに動いてしまいました。一人の喉を潰し、一人の関節を極めて折りながらもう一人にぶつけ、腕が無事な方の兵士の目を突いたのでございます。当然、少し離れたところにいるアメリカ側の兵士達に気付かれましたから、私は一目散に密林へ逃げ込みました。
兵士達から逃げているうちにベトナム労働党(共産党)の方に匿われてその地から逃していただき、「ベンチェ省には優れた女性の指導者がいるから会ってみると良い」との勧めに従ってその女性指導者――ディンさん――にお目にかかりました。指導者と言っても高い立場から説法するのではなく、まず私を良く知ってからディンさん自身の言葉で話をされ、更に地域の人々に紹介してくださいました。彼女の思惑通りだったのかもしれませんけれども、そこの人々が痛めつけられ殺されるのを黙って見ていられず私が蜂起に加わったのは、自然な流れでもありました。ベンチェは既に爆発寸前で、近い内に蜂起し、失敗すればここが地獄になることは明らかでございました。さて、ベンチェの農民側には銃がございません。白兵戦で兵士を倒して武器を奪うということになりますと、私の仕事は沢山ございました。人々に、敵の不意を突いて効果的に勝つ方法を教え、蜂起の日にはなるべく沢山の兵士を倒して素早く銃を奪うという、重い役割でございます。
正直に言いますと、私は資本主義にも共産主義にも関心はございません。ただ連合軍は皆の仇に当りますし、アメリカが無理矢理に作った傀儡政権が、目の前の人々に地獄の苦しみをなめさせ続けるのに耐えられず、またベトナムで起きた大量餓死の罪滅ぼしの意味も。振り返ってみると、何か申し訳の立つことをして皆の後を追いたい気持も、きっと。
⑥解放戦線
蜂起は劇的な成功を収めました。多くの人が悲壮な覚悟を持って戦い、武器を奪い、傀儡軍(アメリカによる傀儡政権の軍のことをこう言いました)の屯所を多数で包囲し、ある屯所は内応者が門を開いて人々が突入し、ある屯所は降伏しました。
最初の蜂起の後も、敵から武器を奪って来た人々を優先的に兵士として採用しつつ更に多くの村が蜂起し、掃討に来た傀儡軍にはゲリラ戦で対抗し、一部の傀儡軍が村を占拠して虐殺を始めると、今度は多数の女性達が地区の首都を埋め尽くして猛烈な抗議行動を何日も続け、性暴力被害者による告発まで行われて大変な騒ぎになり、傀儡軍は撤退しました。
ベトナム各地で蜂起が続き、私は武術の手ほどきに戦闘にと飛び回り、そうこうしているうちに、激しい弾圧を受けている他の農民や仏教徒など、様々な抗米勢力がまとまって、「南ベトナム解放民族戦線」略して「解放戦線」というまとまりになりました。
意外なことに、私は部隊を1つ任されることになりました。辞令を受けた時、女の、しかも外国人を部隊長にするという判断に驚いて理由を尋ねると「指導においても実戦においても実力は申し分ない」「女性兵士も君の部下に入れたい」「君は勘が鋭いし多角的に物事を見ている」「就任前に指揮官として適切な訓練を受けられる」等の曖昧な美辞麗句を聞かされましたけれども、納得できずにいると「……君を一兵卒にするとその上官のプライドが不安だ」と打ち明けられたため、私は恐縮して拝命致しました。
「指揮官として適切な訓練」とは名ばかりの速成講習の後、私の元に来た部下達は、女の身でありながら男装して前線に出ようという奇矯な女性達と、日本人の女が上官でも良いという奇矯な男性達、つまり、変わり者の集団でございました。私は戦闘能力や隠密能力があるとはいえ、銃はまだまだ他の兵士より少しましな程度、ベトナムの文化にも、密林にも、メコン河の水路にも疎いという有様でございますから、皆の信頼を得るためにも、そして最も適切な戦闘配置のためにも、一番危険な役どころを担いました。敵に比べて、銃の数と質と残弾数で劣るため、不意を打ってまず私が白兵戦に持ち込む、という戦い方が結局一番ましだったのでございます。部隊としても、上官が後ろから「行け!」と命令しているより、先陣を切る上官が「続け!」と鼓舞する方が圧倒的に強くなります。私は、努めて強くなりました。もう、雷や爆弾が近くに落ちても、震えるどころか銃の照準でさえ些かも揺らしません。
信頼という下地が出来て初めて、部隊が部隊として機能し始めました。私は戦闘が出来るとは言え、戦闘と戦場は違います。戦場を知っている人は誰もおらず、手探りで知恵を出し合い支え合いしながら、共に成長する必要がございます。軍隊と言えど圧倒的に多くの時間は戦闘をしておりません。手持ち無沙汰な時間がある時は楽しく積極的に訓練できるよう、工夫を凝らしておりました。部隊だけの動植物図鑑には「トアンがこの草の根を茹でて食って腹を壊したw🤣」「この花は蜜が多いけど虫に吸い尽くされてることもある。おしべの地が見えないくらい花粉があればOK!」「この蛇を食った後は毒牙をリエンに渡せ。コレクションしてるから」等書かれておりました。他にも、手話で話す時間、変な罠コンテスト……趣味と実益を兼ねて色々なことをしておりました。実学は無限に必要で、怪我や感染症の知識、軍隊の経済原理、暗号解読、政治的背景、少数民族について、地形と地質と気候と生態系、時速200kmで飛ぶヘリに不意の一撃を確実に命中させるための弾道計算……皆学ぶことに貪欲でございました。
けれど意外なことに、「虚学」と言われがちな、文学、哲学、宗教学、史学、一部の人類学や社会学……より正確に言えばこれらから得られる精神や姿勢こそが、決定的に重要でした。戦友達は、私が心許ない記憶で語る『花物語』を熱心に聞いてくれました。ベトナムの料理を教えてくれました。一緒に歌い、農作業をしました。鳥の一声に悲哀や慰めを見出し、共有するようになりました。どういうつもりで命を懸けているか、誰をどんな心持ちで大切にしているか、敵兵や傀儡政権や米国をどう思っているかを知り合いました。だからこそよそ者の私が一緒に戦い続けられましたし、米国と傀儡政権は勝てない――少なくとも安定した支配体制を築けない――と感じました。
アメリカ側が決定的に劣っているのは此処だったのだと思います。アメリカは「たかがベトナムのために」軍事教義をゲリラ向けに転換しません。アメリカ側の暴虐が際限なく解放戦線を生んでいることも、実際のベトナム農民の生活と心情も、軽視していました。遠くから命令を下している政治家や高級将校だけでなく、現地でベトナム人と接している一兵士でさえ。
彼らは「ベトコン」、つまりベトナム共産主義者を探していましたけれども、戦友達の大半は共産主義者ではなく、傀儡政権があまりに暴虐を働くので「これなら戦う方がマシだ」と思い詰めたり、復讐を望む人々でした。南の政権がそれなりの善政を敷いていれば、ベトナムも朝鮮半島のようになったことでしょう。
結果的に南に共産主義者を呼び込んだのも寧ろアメリカで、共産主義の北部に苛烈な爆撃を加えて追い詰めたために北から多数の兵士が参戦した結果、終戦頃には北部共産党の兵士が大半を占めました。
さて、私達は純粋な軍事力で敵うはずもございませんから、戦闘以外に、国内の仲間を増やし結びつけること、アメリカを含む各国の世論を喚起すること、それらの連携を重視し、私の任務も、諜報・工作が増えました。侮られやすい女でありながら白兵戦闘に強いこと、各言語に通じていること、隠密能力が高いこと、ベトナム人女性としては背が高いこと、等を活かして、情報奪取・施設破壊・誘拐と捕虜交換・捕虜となった味方の脱走手引などを行いました。
ベトナム人女性は髪を伸ばしますから、私の身長で髪を切って男装し軍隊式の所作をしていればベトナム人男性に見え、かつらを被りドレスとお化粧で装い訛りのないフランス語やクイーンズイングリッシュを話していればここでも身長が味方をして「白人と現地人の混血か」と思われます。日本人としての身元を利用したり、中国人の振りをしたこともございます。
特に米兵は「女だから」という侮りが強く、やりやすうございます。彼らは戦う女性についてあまりに無知で、女の身でありながら各地の剣劇興行や武術大会を総なめにし、強豪らと数百回戦って精々二度しか敗北しなかった園部秀雄という、当時の生きた伝説を知りません。ベンチェの蜂起を大成功させたグエン・ティ・ディン女史の名を聞いてもお飾りだと思い込んでおりました。実際、解放戦線であっても、実際に戦う女性兵士は少のうございましたけれども、米軍の女性兵士は戦闘行為そのものを禁じられており、その大半が看護師という状況、まして白兵戦闘など。米兵の、人を対等に見ない姿勢や、「黄色い女にやられた」という報告を避けたがる心理は、本当に助かりました。
また私は日本で、ベトナムにはないテレビを見ておりましたから、特にテレビ関係のジャーナリストが来た時に何度か通訳を務めました。テレビ映えする映像が撮れるよう、解放戦線の情報を活用しつつ偶然を装って誘導するのです。こういう時には物事を、戦場から離れた第三者の目で見続けますし、解放戦線の悪行も、もちろん取材することになります。例えば私共も地雷を使いますので、どうしても巻き添えが出ます。
それだけでなく、傀儡政権の中にも私達の味方が沢山おり、本当は南部の非道の一部は阻止できたように思いました。けれど解放戦線は、傀儡政権の非道を止めるより更に行わせて利用したいのでは――少なくとも、その方が戦略的に優位になる――と思いながら、私はその疑問をおくびにも出さず、放置し続けました。
戦いを続ければ続けるほど、心は怪物になって行きます。かつてチョコレートをねだった千代子を殺した米兵も、こうだったのでしょうか。
⑦暴力被害者支援と帰国と養子
とある村で米軍を追い払った後、歩哨に立っていた私のところに痩せた子供が近づいて何かを言いました。私が聞き取れないでいると、その子は私の服のベルト、つまり手榴弾を吊るしている辺りに手を伸ばしながら再度言いました。私はその子供のあまりに危険な動きを反射的に躱しながら怒りを覚え、次の瞬間、聞こえた言葉を理解しました。"Gíp mi chô-cô-lét!”――「ぎうーみ、ちょこれーと!」――私は進駐軍の米兵の立場でした。けれど私は殺さずに済みました。私はまだ間に合うかもしれない、ここが分かれ道なのかもしれない、そう感じて、チョコレートは持っておりませんでしたから手持ちの食品を全部並べながら「ありがとう、ありがとう」と言っているうちに、いつの間にか私は泣いておりました。家族を亡くした時も千代子を亡くした時も出せなかった涙が、20年以上経ってやっと行き場を見出したのでしょう。奇態な中年女の背を、その子は優しくさすってくれました。
その場で決意して除隊を申し入れて何とか叶った後は、戦争や戦争にまつわる被害者の支援に加わりました。被害は広く深く、資金も人材も不足し、私自身は経験も人脈もない状態でございます。手探り体当たりでもがいているうちに、とある母子と出会いました。幼い子供の父親は恐らくアメリカ人であろうとしか判らず、母親は余程酷い目に遭ったのか、精神を酷く病んで仕事どころか日常生活もままならず、更にマラリアも発症し、うわごとで子供の心配をしながら亡くなりました。
その頃アメリカはベトナムからの撤退を決めており、いずれ傀儡政権が崩壊するのは確実かと思われました。アメリカに恨みを持つ人が多い中、米軍の急激な撤退で経済も崩壊しつつあるこの場所で、地縁血縁が生死を分けることすら多いこのベトナムで、この子がまっとうに生きていけるとは思えません。考えたあと、私はその子を引き取って帰国しました。
私は元々結婚に前向きでもなく、大量に浴びた枯葉剤が催奇形性を持つと判ってからは、子供を持つことはないと確信すらしておりましたから、何の心構えもございません。働くにも当時は法的な性差別すら残っていた時代、更に折悪く第一次石油危機が起きましたからまともな仕事は見つからず、なんとかベトナムと貿易をする会社の立ち上げに加わって糊口を凌ぎました。仕事があるだけでは育児との両立が難しゅうございますから、警備も兼ねて会社に住み込みでございます。子供、会社の皆様に随分可愛がっていただきました。
また、平和なところばかりにいると却って不安に苛まれることが判りましたから、船や政局戦局の都合でどうにも暇な日が出来ると、山で狩猟をするようになりました。ベトナムの密林でやっていたことの、小規模な再現でございます(PL註:キクは《ドクタードリトル》を持っており、動物の意思・感情が解ります)。無理のないように狩りの頻度を減らしていきますけれども、私が本当に平和に馴染むには何十年もかかることでしょう。
⑧婦人保護
やがて会社は上手く時流に乗って大きく成長し、大きな所に吸収合併される運びとなりました。けれど私は高所大所を切り盛りするのに向きません。執務も今まで以上に現場から離れた平和な争いになることでしょう。私はどうしても、戦場に適応した人間でございます。これ以上、無意識のうちに平和な空気を乱したくない一心で、「婦人保護」の仕事に転職致しました。
この「婦人保護」は、実務として性別に由来する暴力被害者への支援でありつつ、枠組は「売春を行ったあるいは売春婦に転落するおそれのある婦人に、補導処分あるいは保護更生を施すこと」という、何冊も本を書けるほど沢山の矛盾と問題を抱えるものでございます。
来所者は、ほぼ全員が悲惨な境遇にあり、大半が精神疾患や障碍を持っており、多くは親や夫から虐待暴力を受けています。
例えば、暴力を振るう夫からやっとの思いで逃げてきた母子に「あなたは『売春への転落防止』という枠組みで保護されます、と説明すれば、ただでさえ限界を超えて傷ついた方の最後の自尊心を奪いかねません。けれど、その枠組みを使わなければ目の前の悲劇に何もできません。
文字通り死ぬほどの不幸を前提とするかどうかで世界は丸ごと変わってしまいますから、地獄に触れる仕事はどこか安心できます。現在の日本は総じて、有史以来のあちこちの社会と比べて異質なほど平和でございますね。
戦場での経験は、想像以上に活きました。暴力を振るう親や夫は、大戦中に軍隊で心を病み、依存症になり、コミュニケーションが暴力に侵蝕された元兵士がおり、私が応対すると上手く行くことがございました。時に暴力団関係者と渡り合っても、やはりお互い判るものがあり、無駄な揉め事を避けられます。
武術の先生のお弟子さんが開いた道場にもおりまして、この頃に師範代をお引き受け致しました。
日本での仕事が順調な一方、終戦後のベトナムは、解放戦線と革命政府が共産党に取って代わられて強権的な統制が始まっただけでなく、カンボジア、中国との戦争も起きました。私達が戦った意味はどのくらいあったのかと悩んだこともございます。ただ、養子を貰ったことは確かに、良い判断でございました。
⑨定年退職後
退職後は、狩猟を続けつつ民生委員も始めました。これは地域のよろず相談相手で、婦人保護の仕事から手を広げた形になります。婦人保護でも、ご本人の他に同伴児童も保護する必要はございましたから、私は特に児童福祉への関わりを増やしました。
するといつの間にか放課後学習クラブでボランティアを始めることになり、何の因果か教育などしております。
幸運なことに私は、終戦より早くゆっくり戦場を離れたため、元々諜報をやっていたため、同じ様な地獄の経験者と触れ合う仕事に就けたため、他の兵士達より余裕を持って人間の皮を被れました。けれど魂には暴虐が染みついており、争い殺すことが当然の選択肢になっておりますから、子供との関わりも控えめがようございます。時々、勘が良く私を怖がる子もいて、そういう時には安心できます。
また、民生委員の仕事などでたまにヤクザの方にお目にかかりますと、「まだクタバってねえのか! こンのクソババア!!」という元気なご挨拶を受けますから、長生きも悪くないように思います。
⑩オーヴァード
暫く前、運行中の電車内に異様な風体の怪人物が現れて大きな剣のようなものを振り回し、車両はパニックに陥りました。状況からして私が当るのが最善でしたから、戦って倒しました。すると電車が止まった後、警察ではない方々がいらっしゃってUGNと名乗り、あれよあれよという間に連れて行かれて検査を受け、私はいつのまにかオーヴァードになっていたと説明されました。
昔、脳卒中で高次脳機能障害になったのが奇跡的に回復し、発症前よりも元気になったことがございまして、どうやらその時に覚醒していたのではないかということでした。
と言っても私は、オーヴァードらしい能力をほとんど使えません。自分の体が回復して、空気中のレネゲイドを多少動かせる程度でございます。
けれども、世界の裏側を知ると、表とはずいぶんな違いでございました。ただ平穏に暮らしていただけの一般人がファルスハーツに虐殺される様に、どうしても、ベトナムで無慈悲に殺された数多の人々が思い出されます。
そして一つ、あの時のベトナムとは違うことがございます。ベトナムでの私には守り合うべき戦友こそおりましたが、いつ米軍に殺されるとも知れぬ家族は持たず終いでございました。今の私には、仮令この心が怪物になる危険を冒してでも守るべき家族がおります。あの時死んでいった戦友達とやっと、同じ立場になれました。
セッション履歴
| No.
| 日付
| タイトル
| 経験点
| GM
| 参加者
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| フルスクラッチ作成
| 360
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| 1
| 25.04.29
| Silhouette In Fog
| 26
| はるかさん
| じょさんなかたに(すまがん)さん
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| お互い、目的が違いましたね。私がしたのは戦争でございますから。
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