優しさなんてただのエゴだ。自己満足で、傲慢だ。
いつも、そう思っている。
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俺は両親を覚えていない。確か、家族でドライブをしていたら、トラックの横転に巻き込まれて亡くなったのだと聞いている。あれは俺が幼稚園に上がる前のことだったか。炎上した車の中からは、泣きじゃくる俺と兄と、俺らを庇うようにしてこと切れた両親が見つかったのだそうだ。
それからは、叔父の家庭に引き取られることになった。叔父は癇癪持ちで、家庭内暴力が日常的に行われていた。子供の俺らにそれをどうにかする力は無くて、ただ叔父からの暴行に耐えるしかなかった。……まぁ、よくある話だ。
叔父に引き取られたあの頃には、漠然と死を願うようになっていた気がする。生きていることよりも、死ぬことの方が俺にとってメリットで、随分魅力的に感じたものだ。家庭という、子供にとって世界の全てだったその場所で、俺は既に自分の人生は生きていく価値を見出すに値しないと結論づけていた。一方で、兄はそうではなかったらしく、いつも生きていればどうにかなると笑いながら言っていた。まともな食事を用意されなくても、水の張った浴槽に顔を沈められても、血が流れるまで壁に頭を打ち付けられても、兄は叔父に言い返しもしなかったし、やり返しもしなかった。
「優しい人でありたいんだ、父さんも母さんもそうだったから」
それが兄の口癖だった。
それからも叔父の暴力癖が直ることは案の定無かった。俺たちの体は痣だらけだったし、服もサイズが合わなくなって窮屈な制服をずっと着続けた。来年にはお前も中学生になるし、そうしたら俺の制服譲ってあげるから、と兄はいつものように笑っていた。俺はと言えば、来年なんて来なくたっていいと零していた気がする。
その日の叔父はいつにも増して機嫌が悪かった。酒を買ってこいと言われた俺は、いつも通り缶ビールを買ってきたはずだった。コトンと音を立て、机に置かれたその缶ビールは、次の瞬間には俺の頭を殴りつけていた。
「言ったやつと違ぇだろうが!!」
叔父の怒声。あぁいつもの癇癪だ、とぼんやりとした頭で考えていたらまた殴られた。床に倒れた俺は、特別起き上がる気力も湧かず、ぐわんぐわんと揺れる頭をただ押さえるだけだった。今日はこのくらいで済んだか、と思うくらいには思考に余裕すらあったのだ。
……視界の端で、小さな鏡面に自分の腫れ上がった顔が映ったのが見えた。次に、叔父が包丁を持ってゆらりゆらりとこちらに向かってくるのが。今日の叔父は特別機嫌が悪かったのだ。あぁでも。
「ようやく死ねるかもしれない」
真っ先に思ったのはそれだった。死にたい、という感情を形にするのすらどうにも面倒くさかった俺は、結局ぐだぐだと12まで生きてしまった。でもここで叔父に殺されるなら、自分で自分を殺すような真似はしなくていいかもしれないと安堵すらしていた。だから、気づかなかったのだ。
どすり、と鈍い音がした。にもかかわらず、俺に痛みは無い。音のした方を見遣れば、兄の胸にずぶりと包丁が刺さっているのが見えた。俺と叔父をよそ目に、その胸からじわりじわりと血が広がっていく。兄が、帰ってきていたのだ。彼は俺を見て、いつものように笑った。
「ごめんなぁ」
それが兄の最期の言葉だった。
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これは俺の記録だ。兄は、優しい人だったのだろう。誰にだって平等で、明るくて、誰のことだって責めないし、怒らない。絵に描いたような聖人君子だ。俺はそう分析している。
優しくて何になる。あの人が優しくしたところで、叔父は殺人犯になったし、俺はあの時「死にたい」という願いを叶えられないままオーヴァードになった。とんだ失策も失策。馬鹿馬鹿しい。兄の「優しさ」に、これっぽっちの感慨も浮かんでこない。
誰も優しくしてくれなんて言っていない。放っておいて欲しいだけだ。戦いに身を投じていれば、どこか死に場所が見つかるかもしれないと思っているだけだ。なのに、どうしていつもいつも、俺に優しくしようとするやつがいるのだろう。
いつか、あんたのその「優しさ」に、俺が何も感じなくなる日が来るのに。
あんたのその「優しさ」が、また俺を理不尽に生かしてしまうのだ。あぁ。反吐が出る。