いつの話だっただろう。
「ふふ、こーんにーちはっ」
いや、いつからだっただろう。日夜問わず話しかけてくるこのうざったいのが現れるようになったのは。
「だーかーらっ、こーんにーちはっ!って言ってるじゃん〜〜」
「…………もしかして寝てる!?暗くてよく見えないし」
別に寝てなんかない。相手したくないから黙っているだけだ。都合よく向こうも寝てるのかと勘違いしていることだし、このまま寝てしまおう……と思ったそのとき。
「うわっっっっっ!!!!」
「へっ!?!?!?!?」
耳元で大きな音が鳴る。つい油断していたためか、素っ頓狂な声をこちらもあげてしまった。
「ふふ〜ん、やっと起きた〜〜?」
気づけばすぐ横にそいつはいた。さっき見た時は向かいの檻に居て、こちらにくることは考えづらい、のだが。
「びっくりしたでしょ。じつはね、わたし見つけちゃったんだ〜!」
「あの檻からの抜け方」
わざとらしく耳打ちしてくる。うざったいことこの上ない。
「でもね、何も考えずに抜け出してたら戻されちゃうでしょ?」
「だからね、監視員さんのいないときにちょっとずつ練習してるの」
知るか。
必死に目を合わせようとしてくるのをどうにかして避ける。
明らかにこちらが関わろうとしていないのに、ここまで構ってくるなんて。よっぽどの暇人なんだろうか。長い間実験に使われて頭でもおかしくなったのか?
今すぐにこいつのことを食べてもいい、いつもならそんな選択肢も浮かぶ。
しかし、どうもその気になれない。
ちょこまかと構ってほしそうに動き回る様子を見ると、どうも『食べるのはかわいそうだ』とでも思っているのかのような感情が生まれてしまう。
誰がこんなこと。
結局は喰うか喰われるか、だというのに。食べなければ自分が死んでしまう。飢え死にするくらいなら誰だって犠牲にする。そう思っていたのにも関わらず、こんなことを思うだなんて考えると——。
「反吐が出る。さっさと帰れ」
「あっしゃべった〜〜〜〜!!!!!名前なんていうの?わたしはね……」
うっかり言葉を発してしまったばっかりに、『構ってもらった』と勘違いさせてしまったらしい。「I-173と呼ばれているから『ヒナミ』と名乗っている」と自称するそいつ——ヒナミは、自分と同じほどの歳であろう見た目をしていた。紫がかった黒髪、同じ色の目。まるで全ての色を混ぜ合わせてしまったかのような色をもつ彼女も、この実験の実験体なのだという。
そして適当に相槌を打っていると、自分のことをあらかた喋り終わったのだろうか。とうとう私のことを聞き始めた。
「そうだ、なんて呼んだらいい?」
「知るか。というか構うな」
「ええ〜、そんなこと言われても……」
わざとらしく不貞腐れながら、ヒナミは私の首元を見る。
実験体の首元にはチョーカーが巻いてある。そしてそこには識別番号が印字されており、私のには「I-100」とあった。
「100、100か……う〜ん、モモ?」
「モモ!モモいいじゃん!!これからモモって呼んでいい?」
「…………」
「黙ってるんだったら勝手に呼んじゃうよ?モモ〜」
妙に腹立たしい。
しかし、ここで食べてしまってもいいのになぜか食べる気にならない。
なんだかんだその後は監視員の靴音を耳聡く聞きつけ、慌てるようにヒナミは戻っていった。
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その日から、度々隙を見つけてはヒナミは私の元に訪れるようになった。
「モモ〜!聞いて、今日ね」
「ねえモモ、何もしてないのに髪切られちゃったんだよ、酷くない?」
「モモちゃん、あのねあのね」
最初は無視を決め込んでいたが、どうも無視しきれず、いつの間にか私たちは普通に喋る仲になってしまっていた。
そんなある日のことだった。
私が実験を終えて戻り、向かいを見ると、知らない奴がそこには座っていた。
「なあ、そこのお前」
そいつは最近来たばかりのようで、怯えて口を聞こうともしない。どうにかして聞き出せた情報としても、「まだここに来たばかりで、何も知らない」ということのみだった。
ヒナミは、どこへ行ってしまったのだろうか。
せめてどこかで生きていればいいのだけれど。
いつの日か、ずっと、ずっと、ずっと、そのことだけが気がかりになってしまっていた。
その後、よく似た誰かに出会ってしまうことも知らずに。