当時は実験体時代のトラウマから他者に対して頑なに心を閉ざしており、高い素質も相俟って単独行動を取りたがる問題児だった。
その折、他のチルドレンとチームを組んで向かった殲滅任務でFHセルへと潜入した際、周囲の静止を聞かず単独で先行した結果、セル内で行われていた凄惨な実験を目の当たりにする。
そのことで過去の記憶がフラッシュバックして行動不能となり命の危険に立たされるものの、どうにか追い付いたチルドレンの一人によって窮地を救われた。
その際に告げられた「力を持つ者は誰かを守る責任がある」という言葉によって考えを改め、以後は己の能力を用いて誰かを守るという決意を抱くことになる。
彼女の名は、チルドレン時代の“シルクスパイダー”玉野椿。
乙部緋紗季が、今でも最も尊敬する教官である。


なお、父親は政府の高級官僚であり、緋紗季はその不倫相手との間に生まれた不貞の子である。
この件が明るみに出ることでの失墜を恐れた男は、彼女を身籠った不倫相手を暴力団―――FHへと売り付けたというのが事の顛末。
母親は実験に耐え切れず死亡し、母体を通じて感染した緋紗季も実験体として扱われたのは当然の帰結と言える。
これらの事実は、当人の及び知ることではない。
そして、FHと関わりを持ってしまった表の世界の人間がどのような末路を迎えるのか……それは、語るべくもないだろう。

眼前に突風。
それは、望まぬ｜覚醒《めざめ》だった。
今までの｜自分を形作るモノ《アイデンティティ》を塗り潰され、及び知らぬ｜深謀《プラン》の守護者になどと据えられて。
怖い。
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い。
自分が自分でなくなっていくような感覚が、声が、寝ても覚めても頭の裡で反響する。
それでも、剣を振るう理由は変わらない。
ただ、それが己が役目だと言い聞かせ、心の中に｜留《とど》め置く。

そんな中で、彼は立っていた。

突然すべてを奪われて、自分自身すら失くしそうになって、ありとあらゆるモノを押し付けられそうになりながら、それでも前に歩もうとしていた。
彼の受けた痛みは、恐怖は、絶望は如何程か。
そんなことは、想像すらできない。否、理解した気になるのも烏滸がましい。

だからこそ、私は傍にいようと思った。
彼が、彼であるために。
願わくば、その心を繋ぎ止める楔とならんことを。

温かい日常が、そこにはあった。
学校。私の年齢なら、本来であれば当たり前のように過ごすべき場所。
友達。私の年齢なら、本来であれば当たり前のように持っている存在。

でも、ああ、そのどれもが、私にとっては｜幻想《ひげんじつ》でしかない。

だってそうだ。あの場所は、あの人々は、私の｜日常《せかい》には存在しなかった。
であれば、私の成すべきことは変わらない。
彼等にとっての｜平和《げんじつ》を守るために、この刃を振るうだけ。

そう思えるだけならば、どれだけ｜幸福《しあわせ》だっただろう。

私の心は、惹かれている。
ひと目見たときから、ずっと、｜魅《ひ》かれている。

はじめは、同情。そして、庇護。かつての己を懐旧し、尽力したいと心から思った。

───どうして？

彼には何もなかったから。なくなってしまったから。せめて傍に居てあげたいと、考えた。

───ほんとうに？

彼に空いてしまった穴を埋められるなら、どこまでも共に居ようと、決意した。

───なんのために？


なぜなら、わたしは、かれのことを───▙▂█いから。
　　　　　　　　　　　　　　　　　

私の心に埋め込まれたモノ。
それが私に与えた変化は、正直なところ、分からない。
この気持ちが、執着が、与えられたものであるならば、きっと今の私は｜偽物《からっぽ》なんだろう。

それでも───私は信じたい。
たとえ、外付けの信念、誰かからの受け売りでしかない軽薄な想いであろうと、その願いから生まれたものは本物たり得ると。
傍に居たいと思ったこの心は、きっと本物なのだと。

かつての私がそうであったように。
この想いが、心が、私の赤色が、いつかあなたの白に届きますように。