あの日、いつものように酒を飲んだ父は、いつものように癇癪を起こしました。
勢いよく振り下ろされた酒瓶は母の頭を綺麗に割って、自身もそのまま砕け散っていったのを覚えています。
怒りの収まらない父は、倒れた母に馬乗りになって何度も母を殴っていました。
そうしてそのうち母は動かなくなり、毛羽立った畳に血がじわじわと広がっていきました。
その時のことはよく覚えています。
その直前、ヒステリーを起こした母にしこたま叩かれ、反抗した罰だと背中に熱湯をかけられていた私は、台所の床に倒れたまま見ていることしか出来ませんでした。

その後のことはよく覚えていません。
気がついたら病院にいて、父は殺人罪で捕まったと聞きました。
母は、助からなかったようです。
まああれだけの出血でしたから、そうなるのは道理でしょうね。

親戚に引き取られてからは、それなりにまっとうな生活をしていたと思います。
どうしてあんな親が出来たのか不思議なくらい、遠縁の叔父叔母は私に良くしてくれました。
毎日殴られることもなく、床にぶちまけられた食事を拾って食べる必要もなく、それどころか温かな寝床もきれいな服も着させてくれました。
高校どころか大学まで出ることが出来たのは、叔父と叔母のおかげだと思っています。
たった一つ、私の本当の名前ではなく、彼らのなくした息子の名で呼ばれることだけは気になりましたが、生命維持よりも優先されることではありませんでしたから、そのまま受け入れました。
高校進学を期に、本当の名前を捨て、「明音」へと戸籍も改名しましたから、これでもう何も気にすることはありません。
思えば、あの一族は皆どこか壊れていたのでしょうね。私も含めて。

では、まっとうな人間とはどのようなものか、そうならない者との違いはなにか。
それを知りたくて、私は心理学を研究しているのでしょう。

生来、あまり体が強くない人でした。
背中のやけどの治療で入院中、中庭で出会ったのが始まりです。
穏やかな笑顔が印象的な、線の細い女性でした。
ろくに学校にも通えていなかった私にとって、罵声を投げることも、暴力を振るってくること、白い目で見てくることもない初めての他人でした。
今思えば、一目惚れだったのかもしれません。
退院してからも、私は彼女のもとへとあしげく通いました。
中学生、高校生、大学生……
なにせ事あるごとに体調を崩すものですから、外で共に過ごす時間よりも、彼女の病室で過ごす時間のほうが遥かに多かったと思います。

それでも、彼女といるときは幸せでした。
彼女が同じように思ってくれていると知ったときは、嬉しくて思わず泣いてしまったものです。
いい大人が恥ずかしいですが、それほど嬉しかったのです。
きっと僕の人士においてあれ以上の喜びは、子供が生まれた時くらいしかないでしょうね。
そうして私達は結婚し、穏やかな日々を送っていました。
二人で過ごすうちに、子供を生むか産まないか、という話になりました。
私も彗も、子供は欲しいと願っていました。
しかし彼女の体調を考えると、諦めたほうがいいのではないか。
何度も何度も、医者も交えて相談をし、そしてとうとう子供を作ることになりました。
不安ではありましたが、何とか彼女も子供も無事に生まれてくれました。

けれど、やはり出産という行為は彼女の体に大きな負担をかけてしまっていたようです。
子供が3歳になった頃、慧は再び大きな病気をし、そうしてそのまま、永い眠りにつくまで病院から出ることはありませんでした。

どうすればよかったのでしょう。
子供を望まなければ、彼女はもっと生きていられたのでしょうか。
それでも、娘を抱き上げた彼女の笑顔はとても幸せそうで、あれが間違いだったなどと思うことは出来ません。
どうするのが良かったのか、どうしたら一番の幸せを手に入れることができたのか、今もわかりません。

明るく、また健康で、親の欲目を除いても、とてもいい子だと思います。
私の娘だなんて信じられなくらいの良い子ですが、彗の娘だというのなら納得かもしれません。
幼い頃に母をなくしてから、できるだけ寂しい思いをさせないように、できる限りのことはしてきたつもりです。
うだつの上がらない父親でしたが、そんな私のことを支えてくれる、本当に良い子です。
いつかあの子が成人したら、一緒にお酒を飲める日がとても楽しみでした。
私にとっての生きる希望は、あの子だと言っても過言ではないでしょう。

本当に、本当に、
……彼女の成長が、どんな未来に進んでいくのかが、楽しみでした。